Friday, July 27, 2012

おもしろい<ところ>


日本語の<ところ>は大活躍だ。

1)翻訳調の<ところ>

順序は逆かもしれないが、英語の翻訳調の<ところ>から始める。

the book which I bought yesterday - 私がきのう買ったところの

日本語らしくするためには <ところの>をはぶいて<私がきのう買った本>でいいい。日本語では whichはいらない、あるいはwhichがないのだ。whichを使わずに<動詞の変化>で後に続く名詞(体言)を関係づけている。すなわちwhichに対応する語はないが、意味としては<買った本>の中に含まれているのだ。

ところで、この<ところ>の用法は英語の翻訳からではなく漢文の翻訳から来ている。最近は中国語を学ぶ人が多いので、以下の漢文は理解できるだろう。

所見所聞 - 見るもの聞くもの(すべて)という意味だ。 現代中国語で<見る>は<看>、<聞く>は<聴>で、<所見所聞>は漢文だ。<所見所聞>は文字通りでは<見る所、聞く所>で、この<所(ところ)>は場所というよりは<もの><こと>だ。さらに注意すべきは語順だ。<所見所聞>は直訳英語では<what see, what hear>、意訳では<what I (we, you) see, what I (we, you) hear>だ。中国語と英語の語順は同じ、日本語は語順が逆になっている。 これは関係代名詞のwhatだが、関係代名詞のwhichも同じような関係がある。

現代中国語: 我所看的書 (たぶんやや古い、あるいは書き言葉では我所看之書)
英語:     the book I read
日本語:    私が読む本

<我所看的書>の語順は少しややこしい。そのまま訳せば<私が読むところの本>。 <我看的書>でもよさそうだが、<我看書>はだめ。<我看>は<書>の修飾語にならないのだ。<我看書>は<私は本を読む>になる。一方<我所看的書>の英語訳はthe book which I read。この英語the book which I readを英語翻訳調の日本語にすると<私が読むところの本>になる。同じではないが、<我所看的書>は中国語の方が英語の語順に近いが、後ろの部分の<看的書>は日本語の語順になっている。以上から、中国語の<所>は英語の関係代名詞のwhichの役目を果たしている-より正確にはwhichの役目の一部で、うしろの<的>も必要。もともと日本語にない語を訳すのは難しい。説明するのがひとつの方法だが、きわめて頻繁に出てくるにもかかわらず日本語にない関係代名詞のwhatや whichをいちいち説明していたのでは煩雑になる。そこで登場したのが中国語の<所>だったのだろう。

- - - - -

 2)<場所>のところ

<場(ば)>も<所 (ところ)>も大和言葉で、しかもよく使われる大和言葉の代表だ。<場>と<所>を組み合わせると<場所(ばしょ)>になり、これは湯桶読み。意味も限定される。<場(ば)>は<所 (ところ)>意味も同じように思ってしまうが、使われ方はかなり違う。連用形(の体言化)と連体形との組み合わせで、くつかの動詞で試しえみよう。

いる - 居(い)場(所)、居(い)所 - 居る場(所)、居る所(ところ)

行く - 行き場、行き所(どころ) - 行く場(所)、行く所(ところ)

見る - 見場(みば)、見所(どころ) - 見る場(所)、見る所(ところ)

聞く - 聞き場、聞き所(どころ) - 聞く場(所)、聞く所(ところ)

する - し場(所)、し所(どころ) - する場(所)、する所(ところ)

取る - 取り場、取り所(どころ) - 取る場(所)、取る所(ところ)

遊ぶ - 遊び場、遊び所(どころ) - 遊ぶ場(所)、遊ぶ所(ところ)

連用形(の体言化)との組み合わせでは慣用語が多い。 <居所(いどころ)>に<いるべきところ>の意はなく、単に<いる所>)、行き場(行くべき場所)、見場(みば)(見るべき場面)、見所(どころ)(見るべき箇所、部分、場面)、し所(どころ)(するべき場面、箇所)、遊び場は<遊ぶべき場>というよりは<遊ぶための場所>。一方、連体形との組み合わせでは、意味は一般化しており、また<場>は<場所>が普通。注意すべきは<連体形+ところ>の組み合わせで、少なくとも明確に三つの一般化した意味がある。

居る所(ところ)、行く所(ところ)、見る所(ところ)、聞く所(ところ)、する所(ところ)、取る所(ところ)、遊ぶ所(ところ)

a)場所の意味
b)時の意味 - 主に<(ちょうど)XXしているところ (just when)>の意味
- - 
c)判断の基準 - 私の見るところ (聞くところ)。知覚動詞に限られるようだ。

- - - - -

 3)特定箇所を示す<ところ>

上で<a)場所の意味>と書いたが、そう簡単ではない。<ところ>は物理的な場所(place, space)の意味がある一方特定箇所。部分(part)も示すのだ。前に置かれた動詞が<特定する>のだ。これは、始めに書いた、<所見所聞><what I (you) see, what I (you) hear><見るもの聞くもの(すべて)>に関連する。特に重要なのは<特定する>だ。日本語文法では<修飾する>というが、実際は単なるカザリではなく<特定する>だ。<一般、不定>に対する<特定>だ。英語では<不定><定>の区別が明確で、不定冠詞(a,an)、定冠詞(the)がほぼ間違いなく使い分けられている。

- - - - -

4)時を意味する<ところ>

上でb)<時の意味 - 主に<(ちょうど)XXしているところ (just when)>の意味>と書いたが、そう簡単ではない。時というよりは場面に近い。場面は時を含む。
そもそもこの世は場(所)(space)と時間(time)と物(もの、matter)の三つからしから成り立っていないので、 時と所は明確に分離したほうがいい。<ところ>が時も場所も意味するとなると混乱をまねくおそれがある。しかし、見方を変えれば、場(所)(space)と時間(time)も渾然一体になっているのもわるくない。分析思考ではなく統合思考だ。

<行く所(ところ)>は少なくとも

a)行く場所 (行くところはまだ決まっていない。)
b)(ちょうど)行くとき (学校にいくところで、友達に出会った。)
c)行く場面 (行くところを見られた。)

の三つの意味があるが、さいわい、日本人には助詞の<は><で><を>で耳で聞いたとしても区別は容易だ。だが、助詞になれない外国人にはこの区別は難しいだろう。

上記の場面(ばめん)は湯桶読みの言葉だ。場面は場(所)(space)も時間(time)も物(もの、matter)(ものは人を含む)も含んでいる。出来事(できごと)とという言葉がある。三字とも大和言葉だ。出来事(できごと)も場(所)(space)も時間(time)も物(もの、matter)を含んでいる。

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5)<人々>のところ

一流どころ、きれいどころ


 - - - - -

6)接続詞の<ところ>

<ところ>は接続詞としても活躍する。場所というよりは時の用法に由来するのだろう。

a)<ところ> 順接でも逆接でもいい。
<XXしたところ、 YYだった。> <XXしたところが、 YYだった。> <XXした、 YYだった。>とほぼ同じ。ただし、<XXする、 YYだ。>とはいえるが、<XXするところ(が)、 YYだ。>とはいえない。

b)<ところが> 順接でも逆接でもいい。
<XXした。ところが 、YYだった。>
<XXする。ところが 、YYだ。>とはいえる。

c)<ところで> 転接。
話題を変えるときに使う。


sptt




Thursday, July 26, 2012

日本語の<連用形の体言化>+体言

日本語の<連用形>は用言だけにつながるとは限らない。<連用形の体言化>というのがある。これはいくらでもある。

そのもの言いはなんだ。
行きはよいよい帰りはこわい。
黙(だま)りの戦術を使う 。
押しの一手。


<連用形の体言化>+体言という組み合わせをチェックしてみよう。さらに英語との比較でもおもしろい。よく5W1Hという、すなわちWhat, Who, When, Where, Why, How だ。日本語に対応させれば、

What - なに。 thing (something, anything) - こと、もの - さらには くさ(草、対象)

(Which - どれ。   thing (something, anything) - こと、もの)

Who - だれ。 one (someone, anyone) - ひと、もの(者) - さらには て(手、人手)、方(さる方、あの方)

When - いつ。 time (sometime, anytime) - とき、ころ

Where - どこ。 place (somewhere, anywhere; some place, any place) - ば(場)、ところ

Why - なぜ。 reason わけ、ゆえ

How - どのように。 way (some how, any how; some way, any way) かた(方法)、さま(様、様子) -さらには 具合(<具>は漢語だ(現代中国語 ju, 広東語 koi))

(How much (many) - どのくらい、どれほど。 degree - ほど)

これまで見てきた代表動詞<見る><取る><思う><する><やる>の <連用形の体言化>で試してみよう。これまた組み合わせ遊びだが今度は<連用形の体言化>+体言(原則として大和言葉)と、これに<連体形>+体言も加えてもみる。<連体形>+体言は基準、一般形で、原則としてどんな組み合わせはでも可能なので、<連用形の体言化>+体言の組み合わせで意味が明確のものだけとりあげる。

<見る>の連用形<見>、連体形は<見る>
<取る>の連用形<取り>、連体形は<取る>
<思う>の連用形<思い>、連体形は<思う>
<する>の連用形<し>、連体形は<する>
<やる> の連用形<やり>、連体形は<やる>

1) <見る>の連用形<見>、連体形は<見る>

見事(ごと) - 見る事(こと): <見事(ごと)>は慣用語で<すばらしい>といった意味。<見ること>は<見ること、聞くこと>のように使うし、また<見ること>という行為自体も指す。

見物(みもの) - 見る物: <見もの>は<見るべきもの>。<見るもの>は文字通り。

見時(どき) - 見る時: 見時(どき)は<見るべき時>。<見るとき>は文字通り。

見頃(ごろ) - 見る頃: 見頃(ごろ)は<見るべき頃>。<見る頃>は文字通り。

見場 - 見る場: <見場>は<見るべき場面>。<見る場>はほとんど聞かず<見る場所>となろう。

見所(どころ) - 見るところ: <見所(ところ)>は<見るべきところ(箇所)>。<見所がある>などと使う。<見るところ>は文字通りの意(あまり使わない)のほかに、<見れば>や<見ると>など条件句となる。<見たところ>ともいうので、英語の条件法に似ている。<ところ>はこれまたやまた大和言葉の名詞代表で、いろいろな意味がある。別途検討。

見分(わ)け - 見るわけ: <見分け>は慣用語で<区別>といった意味。<見るわけ>は<見る理由>

見方(かた)(方法) - 見る方: <見方(かた)>は<見る方法>だが<見るべき方法><見るための方法>とも言える。<見る方>は<見る方法>にはならず、<見る人><見る方角>になる。

2) <取る>の連用形<取り>、連体形は<取る>

取り物 - 取るもの: <取り物>は<捕り物帳>がある。 <取るもの>は<取るものも取りあえず>というのがある。
取り時(どき) - 取るとき: <取り時(どき)>は<取るべき時>。<取るとき>は文字通り。
取り頃(ごろ) - 取る頃: 取り頃(ごろ)は<取るべき頃>。<取る頃>は文字通り。
取り所(どころ) - 取るところ: <取り所(どころ)>は<取るべき所>だろうが、あまり聞かない 。つかみ所(どころ)はよく使う。一方<取るところ>は<取るべきところ>の意があり、使われる。また<取るところを見られる>という言い方がある。
取り分(わ)け  - 取るわけ: <取り分け>は慣用語で<特に>といった意味。<取るわけ>は取る理由>。
取り方 - 取る方: <取り方>は<取る方法>だが<取るべき方法><取るための方法>とも言える。
取り様(ざま) - 取るさま: <取り様(ざま)>も<取るさま>も<取る様子>だが、<取りざま>は良いいみでは使われない。<その取りざまは何だ>。これは<取る>にかぎらず、<言いざま>、<やりざま>も同じ。


3)<思う>の連用形<思い>、連体形は<思う>

思い事(ごと) - 思うこと: <思い事(ごと)>は<思っていること>の<こと>。<思うこと>は<思う>という行為そのものを指す。
思い時(どき) - 思うとき: <思い時(どき)>は<思うべき時>だがあまり使わない。<思案のし時(どき)>は使う。<思うとき>はは文字通り。
思い所(どころ) - 思うところ: <思い所(どころ)>は<思うべき所(どころ)だがあまり使わない。これも<思案のし所(どころ)>がよく使われる。 
思い方 - 思う方: <思い方>は<思う方法>だが、これも<思うべき方法><思うための方法>とも言える。<思う方>は<思う人>あるいは<思う方向>になる。

4)<する>の連用形<し>、連体形は<する>
仕事 - すること: <仕事>は<するべき事>。<すること>は<するという行為>そのものを指す。
し時 - するとき: <し時(どき)>は<するべきとき>。<するとき>はは文字通り。
し頃(ごろ) - 見る頃: し頃(ごろ)は<するべき頃>。<する頃>は文字通り。
し所 - するところ: <し所(どころ)> は<するべきところ(場所というよりは箇所、あるいは時)。<するところは>は<する場所>の意味にもとれるが<するところを見られる>などと使う。
仕方 - する方: <仕方ない>と<する方ない>は違う。<する方>はまた<する人>
し様(ざま) - する様: <取りざま>に同じ。

 5)<やる> の連用形<やり>、連体形は<やる>
やり時 - やるとき: <やり時(どき)は<やるべき時>。<やる時>は文字通り。
やり場(遣り場) - やる場: <やり場(遣り場)>は普通<もって行き場>の意で<やる(する)>の意はない。<やる場>ほとんど聞かない。
やり方 - やる方: <やり方>は<やる方法>だが、これも<やるべき方法><やるための方法>とも言える。<やる方>は<やる人>あるいは<遣る方向>になる(遣る方ない)。
やり様(ざま) - やる様: <取りざま>に同じ。

一般的に言えることは、<連用形の体言化>+体言が<べき>としてつながることだ。英語でいえば、
a thing to see (take, think, do)に対応する。<ため>の場合、英語では a thing for seeing (taking, thinking, doing)となる。




sptt











Wednesday, July 25, 2012

Latin Cases - 1) Accuasative



Collins Latin Dictionary And Grammar By No Author

The Grammar section of  Collins Latin Dictionary And Grammar explains as follows:

 Accusative Case

1. for the direct object of the verb
canis baculum petit (the dog fetches the stick)

2. with verbs of teaching and asking which take accuasative of a person and thing
puerum litteras decebo (I sahll teach my boy litertaure)

3. verbs of naming, making, etc take two accusaives for the same person or thing
Ancum Martium regem populus creavit (The people made Ancus Martius king)

4. in exclamation
o tempora, o mores (what times, what conduct !)

5. to show extent of space
murus dacem pedes altus est (the wall is 10 feet high)

6. to show extent of time
Troia decem annos obsessa est (Troy was under siege for 10 years)

7.  to show motion to a place or country usually with a preposition'
ad Hsipaniam effugerunt (they escaped to Sapin)

 8. to show motion towards, without a reposition, before anmes of towns and small islandse
Note also: domum (home), rus (to the country), foras (utside)
Athenas legati missi sunt (Ambassadors were sent to Athens)

9. for an object with similar meaning to the verb (congnate)
vitam boram visit (he lived a good life)

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1. for the direct object of the verb
canis baculum petit (the dog fetches the stick)

New Latin Grammar (Charles E. Bennett) explains:

172. The Accusative is the Case of the Direct Object.

173. The Direct Object may express either of the two following relations:—

A. The PERSON OR THING AFFECTED by the action; as,—
cōnsulem interfēcit, he slew the consul.
legō librum, I read the book.
B. The RESULT PRODUCED by the action; as,—
librum scrīpsī, I wrote a book (i.e. produced one);
templum struit, he constructs a temple.

Accusative of the Person or Thing Affected.

This is the most frequent use of the Accusative; as in—
parentēs amāmus, we love our parents;
mare aspicit, he gazes at the sea.
But the things are not so simple especially in case of A. The PERSON OR THING AFFECTED by the action.
1) cōnsulem interfēcit, he slew the consul. - This seems OK as the consul was affected (slain).
2) legō librum, I read the book. - This is a bit strange as the book was note directly affected (no or very little physically changed) by the action of reading. If the book was broken (deformed) or thrown away (the location was changed) he book was affected.
3) parentēs amāmus, we love our parents. - This is also a bit strange as the parents were not physically affected (not changed).
4) mare aspicit, he gazes at the sea. - This is apparently strange as the see was not affected at all by the action of seeing.


My Comment

The author says "the things are not so simple ....."  Actually this should be "the grammar (or the language)  is not so simple ....." What is the problem. I think the the problem is the definition of the Accusative case at the begnning - The PERSON OR THING AFFECTED by the action.


"The PERSON OR THING AFFECTED by the action" is not necessary physically (able to be seen by eyes) and can be "The PERSON OR THING AFFECTED by the action psychologically" as well.

Then

2) legō librum, I read the book. - This is a bit strange as the book was note directly affected (no or very little physically changed) by the action of reading.

is not strange as the content of the book was taken by the reader by the action of reading.

3) parentēs amāmus, we love our parents. - This is also a bit strange as the parents were not physically affected (not changed).

is not strange as the parents are treated as an direct object of the action of loving.

4) mare aspicit, he gazes at the sea. - This is apparently strange as the see was not affected at all by the action of seeing.

is not strange as the sea is treated as an direct object of the action of seeing (gazing at). Please also note the difference between "to gaze at" and "to see". "To see" takes a direct object but "to gaze" does not. "To gaze" requires "at", which means that you can directly see the sea by using "to see" but you cannot directly see it by using "to gaze". You cannot directly get a sight of the see by "to gaze". Furthermore "You gaze at this but you do not see this"  means "You only gaze at this but do not see the meaning of this". In depth psychologically, you do not take anything out from the scenery by "to gaze at" but you take something out from the scenery."  "To take" is a definite action and takes a direct object.

This applies to legō librum. Reading is a mental, psychological action and can take a direct object. You take something out from the book by the action of reading.

So the definition of the Accusative case shall be

The object is either physically or psychologically is affected by the action of the subject.

More purely "physically" you cannot see an object without light. Light is the key to the seeing function or phenomenon. Light does some affect to your eyes. So in truth more scientifically you cannot see the sea but "Sea is seen to your eyes" or more simply "The see is seen to you".

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2. with verbs of teaching and asking which take accusative of a person and thing
puerum litteras decebo (I sahll teach my boy litertaure)

Some other examples

New Latin Grammar (Charles E. Bennett) explains:

Two Accusatives—Person and Thing.

178. 1. Some Verbs take two Accusatives, one of the Person Affected, the other of the Result Produced. Thus:—
a) Verbs of requesting and demanding; as,—
ōtium dīvōs rogat, he asks the gods for rest;
mē duās ōrātiōnēs postulās, you demand two speeches of me.
So also ōrō, poscō, reposcō, exposcō, flāgitō, though some of these prefer the Ablative with ab to the Accusative of the Person; as,—
opem ā tē poscō, I demand aid of you.
b) Verbs of teaching (doceō and its compounds); as,—
tē litterās doceō, I teach you your letters.
c) Verbs of inquiring; as,—
tē haec rogō, I ask you this;
tē sententiam rogō, I ask you your opinion.
d) Several Special Verbs; viz. moneō, admoneō, commoneō, cōgō, accūsō, arguō, and a few others. These admit only a Neuter Pronoun or Adjective as Accusative of the Thing; as,—
hōc tē moneō, I give you this advice;
mē id accūsās, you bring this accusation against me;
id cōgit nōs nātūra, nature compels us (to) this.
e) One Verb of concealing, cēlōa; as,—
nōn tē cēlāvī sermōnem, I have not concealed the conversation from you.
2. In the Passive construction the Accusative of the Person becomes the Subject, and the Accusative of the Thing is retained; as,—
omnēs artēs ēdoctus est, he was taught all accomplishments;
rogātus sum sententiam, I was asked my opinion;
multa ādmonēmur, we are given many admonitions.
a. Only a few Verbs admit the Passive construction.

My comment


a)  demand xxx of you

mē duās ōrātiōnēs postulās, you demand two speeches of me.
opem ā tē poscō, I demand aid of you.

Are these English are correct?

of you is regarded as the Genitive case.

b) Mr A says "I want to ask you a question."

In this sentence you is an indirect object (as "to whom" Mr A asks a question) and a question is a direct object (as what Mr A ask). Is is correct. Some ambiguity exists. Mr A also says " I want to ask you to give me an answer." In this sentence you is a direct object while me is an indirect object and an answer is a direct object of give. In English you remains you either as a direct object or as an indirect object - me, him, her, us, them do so as well. Because of this the difference between the direct object and the indirect object become obscured.

she asked him the time of the train
If you change this sentence to she asked him to tell the time of the train, him becomes an direct object.

Ref

Ask - www.thefreedictionary. com

1. (often foll by about) to put a question (to); request an answer (from) she asked (him) about God
2. (tr) to inquire about she asked him the time of the train she asked the way
3. (tr) to direct or put (a question)
4. (may take a clause as object or an infinitive; often foll by for) to make a request or demand she asked (him) for information they asked for a deposit
5. (tr) to demand or expect (esp in the phrases ask a lot of, ask too much of)
6. (tr) Also ask out ask over to request (a person) politely to come or go to a place; invite he asked her to the party
7. (tr) to need; require the job asks both time and patience
8. (tr) Archaic to proclaim (marriage banns)


c) Special verbs
d) Several Special Verbs; viz. moneō, admoneō, commoneō, cōgō, accūsō, arguō, and a few others. These admit only a Neuter Pronoun or Adjective as Accusative of the Thing; as,—
hōc tē moneō, I give you this advice;
mē id accūsās, you bring this accusation against me;
id cōgit nōs nātūra, nature compels us (to) this


moneō  -         to remind , to admonish, to warn, to advise, to instruct

admoneō  -     to admonish, to remind
commoneō  to remind, to warn

cōgō -              to restrict, to confine; to compel
accūsō -          to accuse
arguō -           to declare, to prove; to accuse, to blame, to expose, to convict

What special ?  What are in common ?

Most these verbs describe verbal actions or mental behaviors and directly involve or are related with  a person or persons. So it is natural to take the Accusative case of Pronoun.


How these verbs used in German ?  German still keeps the Dative.




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3. verbs of naming, making, etc take two accusaives for the same person or thing
Ancum Martium regem populus creavit (The people made Ancus Martius king)

Some other examples

New Latin Grammar (Charles E. Bennett) explains:

Two Accusatives—Direct Object and Predicate Accusative.

177. Many Verbs of Making, Choosing, Calling, Showing, and the like, take two Accusatives, one of the Person or Thing Affected, the other a Predicate Accusative; as,—
mē hērēdem fēcit, he made me heir.
Here is Direct Object, hērēdēm Predicate Accusative. So also—
eum jūdicem cēpēre, they took him as judge;
urbem Rōmam vocāvit, he called the city Rome;
sē virum praestitit, he showed himself a man.
2. The Predicate Accusative may be an Adjective as well as a Noun; as,—
hominēs caecōs reddit cupiditās, covetousness renders men blind;
Apollō Sōcratem sapientissimum jūdicāvit, Apollo adjudged Socrates the wisest man.
a. Some Verbs, as reddō, usually admit only an Adjective as the Predicate Accusative.
3. In the Passive the Direct Object becomes the Subject, and the Predicate Accusative becomes Predicate Nominative (§ 168, 2, b): as,—
urbs Rōma vocāta est, the city was called Rome
a. Not all Verbs admit the Passive construction; reddō and efficiō, for example, never take it.


9. for an object with similar meaning to the verb (congnate)
vitam boram visit (he lived a good life)




New Latin Grammar (Charles E. Bennett)
2. The following classes of Verbs taking an Accusative of this kind are worthy of note:—
a) Many Intransitive Verbs, when compounded with a Preposition, become Transitive. Thus:—
1) Compounds of circum, praeter, trāns; as,—
hostēs circumstāre, to surround the enemy;
urbem praeterīre, to pass by the city;
mūrōs trānscendere, to climb over the walls.
2) Less frequently, compounds of ad, per, in, sub; as,—
adīre urbem, to visit the city;
peragrāre Italiam, to travel through Italy;
inīre magistrātum, to take office;
subīre perīculum, to undergo danger.
b) Many Verbs expressing emotions, regularly Intransitive, have also a Transitive use; as,—
queror fātum, I lament my fate;
doleō ejus mortem, I grieve at his death;
rīdeō tuam stultitiam, I laugh at your folly.
So also lūgeō, maereō, mourn; gemō, bemoan; horreō, shudder, and others.
c) The impersonals decet, it becomes; dēdecet, it is unbecoming; juvat, it pleases, take the Accusative of the Person Affected; as,—
mē decet haec dīcere, it becomes me to say this.
d) In poetry many Passive Verbs, in imitation of Greek usage, are employed as Middles (§ 256, 1; 2), and take the Accusative as Object; as,—
galeam induitur, he puts on his helmet;
cīnctus tempora hederā, having bound his temples with ivy;
nōdō sinus collēcta, having gathered her dress in a knot.

174. Verbs that admit a Direct Object of either of these two types are TRANSITIVE VERBS.
a. Verbs that regularly take a Direct Object are sometimes used without it. They are then said to be employed absolutely; as,—
rūmor est meum gnātum amāre, it is rumored that my son is in love.

Accusative of the Person or Thing Affected.

175. 1. This is the most frequent use of the Accusative; as in—
parentēs amāmus, we love our parents;
mare aspicit, he gazes at the sea.
2. The following classes of Verbs taking an Accusative of this kind are worthy of note:—
a) Many Intransitive Verbs, when compounded with a Preposition, become Transitive. Thus:—
1) Compounds of circum, praeter, trāns; as,—
hostēs circumstāre, to surround the enemy;
urbem praeterīre, to pass by the city;
mūrōs trānscendere, to climb over the walls.
2) Less frequently, compounds of ad, per, in, sub; as,—
adīre urbem, to visit the city;
peragrāre Italiam, to travel through Italy;
inīre magistrātum, to take office;
subīre perīculum, to undergo danger.
b) Many Verbs expressing emotions, regularly Intransitive, have also a Transitive use; as,—
queror fātum, I lament my fate;
doleō ejus mortem, I grieve at his death;
rīdeō tuam stultitiam, I laugh at your folly.
So also lūgeō, maereō, mourn; gemō, bemoan; horreō, shudder, and others.
c) The impersonals decet, it becomes; dēdecet, it is unbecoming; juvat, it pleases, take the Accusative of the Person Affected; as,—
mē decet haec dīcere, it becomes me to say this.
d) In poetry many Passive Verbs, in imitation of Greek usage, are employed as Middles (§ 256, 1; 2), and take the Accusative as Object; as,—
galeam induitur, he puts on his helmet;
cīnctus tempora hederā, having bound his temples with ivy;
nōdō sinus collēcta, having gathered her dress in a knot.

Accusative of the Result Produced.

176. 1. The ordinary type of this Accusative is seen in such expressions as—
librum scrībō, I write a book;
domum aedificō, I build a house.
2. Many Verbs usually Intransitive take a Neuter Pronoun, or Adjective, as an Accusative of Result. Thus:—
a) A Neuter Pronoun; as,—
haec gemēbat, he made these moans;
idem glōriārī, to make the same boast;
eadem peccat, he makes the same mistakes.
b) A Neuter Adjective,—particularly Adjectives of number or amount,—multum, multa, pauca, etc.; also nihil; as,—
multa egeō, I have many needs;
pauca studet, he has few interests;
multum valet, he has great strength;
nihil peccat, he makes no mistake.
NOTE.—In poetry other Adjectives are freely used in this construction; as—
minitantem vāna, making vain threats;
acerba tuēns, giving a fierce look;
dulce loquentem, sweetly talking.
3. The adverbial use of several Neuter Pronouns and Adjectives grows out of this Accusative; as,—
multum sunt in vēnātiōne, they are much engaged in hunting.
a. So also plūrimum, very greatly; plērumque, generally; aliquid, somewhat; quid, why? nihil, not at all; etc.
4. Sometimes an Intransitive Verb takes an Accusative of Result which is of kindred etymology with the Verb. This is called a COGNATE ACCUSATIVE, and is usually modified by an Adjective; as,—
sempiternam servitūtem serviat, let him serve an everlasting slavery;
vītam dūram vīxī, I have lived a hard life.
a. Sometimes the Cognate Accusative is not of kindred etymology, but merely of kindred meaning; as,—
stadium currit, he runs a race;
Olympia vincit, he wins an Olympic victory.
5. The Accusative of Result occurs also after Verbs of tasting and smelling; as,—
piscis mare sapit, the fish tastes of the sea;
ōrātiōnēs antīquitātem redolent, the speeches smack of the past.

Two Accusatives—Direct Object and Predicate Accusative.

177. Many Verbs of Making, Choosing, Calling, Showing, and the like, take two Accusatives, one of the Person or Thing Affected, the other a Predicate Accusative; as,—
mē hērēdem fēcit, he made me heir.
Here is Direct Object, hērēdēm Predicate Accusative. So also—
eum jūdicem cēpēre, they took him as judge;
urbem Rōmam vocāvit, he called the city Rome;
sē virum praestitit, he showed himself a man.
2. The Predicate Accusative may be an Adjective as well as a Noun; as,—
hominēs caecōs reddit cupiditās, covetousness renders men blind;
Apollō Sōcratem sapientissimum jūdicāvit, Apollo adjudged Socrates the wisest man.
a. Some Verbs, as reddō, usually admit only an Adjective as the Predicate Accusative.
3. In the Passive the Direct Object becomes the Subject, and the Predicate Accusative becomes Predicate Nominative (§ 168, 2, b): as,—
urbs Rōma vocāta est, the city was called Rome.
a. Not all Verbs admit the Passive construction; reddō and efficiō, for example, never take it.

Two Accusatives—Person and Thing.

178. 1. Some Verbs take two Accusatives, one of the Person Affected, the other of the Result Produced. Thus:—
a) Verbs of requesting and demanding; as,—
ōtium dīvōs rogat, he asks the gods for rest;
mē duās ōrātiōnēs postulās, you demand two speeches of me.
So also ōrō, poscō, reposcō, exposcō, flāgitō, though some of these prefer the Ablative with ab to the Accusative of the Person; as,—
opem ā tē poscō, I demand aid of you.
b) Verbs of teaching (doceō and its compounds); as,—
tē litterās doceō, I teach you your letters.
c) Verbs of inquiring; as,—
tē haec rogō, I ask you this;
tē sententiam rogō, I ask you your opinion.
d) Several Special Verbs; viz. moneō, admoneō, commoneō, cōgō, accūsō, arguō, and a few others. These admit only a Neuter Pronoun or Adjective as Accusative of the Thing; as,—
hōc tē moneō, I give you this advice;
mē id accūsās, you bring this accusation against me;
id cōgit nōs nātūra, nature compels us (to) this.
e) One Verb of concealing, cēlōa; as,—
nōn tē cēlāvī sermōnem, I have not concealed the conversation from you.
2. In the Passive construction the Accusative of the Person becomes the Subject, and the Accusative of the Thing is retained; as,—
omnēs artēs ēdoctus est, he was taught all accomplishments;
rogātus sum sententiam, I was asked my opinion;
multa ādmonēmur, we are given many admonitions.
a. Only a few Verbs admit the Passive construction.

Two Accusatives with Compounds.

179. 1. Transitive compounds of trāns may take two Accusatives, one dependent upon the Verb, the other upon the Preposition, as,—
mīlitēs flūmen trānsportat, he leads his soldiers across the river.
2. With other compounds this construction is rare.
3. In the Passive the Accusative dependent upon the preposition is retained; as,—
mīlitēs flūmen trādūcēbantur, the soldiers were led across the river.

Saturday, July 21, 2012

する、やる


これまで知覚の代表の<見る>、決定、実行動詞代表の<取る>、分析、評価代表の<思う>を主に他の動詞との組み合わせでで検討してきた。<取る>は実行も表すが、純粋の実行動詞は<する>と<やる>だ。ほかに、<行う>、<なす>があるが、これまで使ってきた方法-く他の動詞との組み合わせ>の基準では<行う>、<なす>は実行動詞の代表にはなれない。く他の動詞との組み合わせ>が多いのは<する>と<やる>だ。<する>のほうが<やる>よりく他の動詞との組み合わせ>が多く、また<やる>はかなり口語化しているので、<する>を中心に<やる>を参考として取り上げて話を進める。ただし、<やる>には元の意味と思われる<遣る>(持って行く、何かを別のところに移す)、あるいは<遣る方なし>の<遣る>がある。<やり方>ではない。

<する>は少しやっかいだが、言語探索という面では面白い。やっかいなのは

1) <する>の連用形は発音が大きく変化して<し>となるのだ、あるいは<なってしまった>のだ。<しない>、<します>、<する>、<するとき>、<すれば>、<しよう>変化する。したがって、発音上(より正確には、耳で聞いた場合)、<する>との関係が薄らぐのだ。一方、<やる>の連用形は<やり>で<し>の問題はない。

例1) 仕来り(しきたり) - <し来たりし>(してきた)こと。

例2) 仕舞う(しまう) -もとは<閉まる><閉める>関連の語だろう。また<XXして仕舞う>と完了の意味でよく使うことからも<仕舞う>は重要だ。

例3) したたか - これは動詞ではなく形容動詞<したたかだ>。<したたかに>で副詞。 もとは<したたく(叩く)>ではないか? これは説明が要る。<したたか>の<たたか>は<戦う>の<たたか>。したがって、<したたか>は<し><戦う>。<XXして><戦う>とは反抗だ。<反抗>する者は<したたか>だ。<たたかう>は<たたく(叩く)>からきている。

例4)老舗(しにせ)
老舗(しにせ)が<し><似せる>、すなわち<まねする>からきていることは辞書をひかないとわからない。そういえば、<見習い>は<見て><習う>だ。

その他、お仕置き、しがらみ(し+からむ)、しくじる(し+くじくける)、しごく(し+こく)、しこる(し+こる)、忍ぶ-偲ぶ(しのぶ)(し+延ぶ)、 etc といわば、いくらでもある。

2) 漢字の<仕>が、<仕上げる>、<仕入れる>、<仕掛ける>、<仕組む>、<仕分ける>など、また体言化したものとしては仕合(ふつう試合と書く)、仕方、仕草、仕事、仕組、仕度、仕度(支度とも書く)、仕手、仕業(わざ)などと書かれることが多い。<仕>は<当て字>あるいは<万葉がな>で中国語の意味はまったく関係がない。

<仕上げる>、<仕入れる>、<仕掛ける>、<仕組む>、<仕分ける>、仕方、仕草、仕事、仕組、支度、仕手、仕業は

し上げ、仕入れ、し掛け、仕組み、し分けと書くのはいいが、

し上、し入、し掛、し組、し分、し方、し草、し事、し度、し手、し業とは原則として書かない。書面上は<語呂>ではなく<見た目><バランス>が悪いのだ。

 3)同じ1)の動詞変化から、<し>は100%大和言葉だ。にもかかわらず、中国語の<し>と発音する(した)語は少なくなく、誤用が生じた。

誤用の例

<仕送り>はおそらく<支送り>が正しい。なぜなら、<仕>は<公>の意でもともと中国では<仕女><仕官>などと使われる。一方<支(現代中国語発音はzhi)>はこの一字で<金を送る>とか<支払い>の意味があるのだ。

<始末>意味からしていかにも漢語のようだ。発音も現代中国語で<shi-mo>、 広東語で<zhi-mat>。ただし、中国語圏で使われているのを聞いたことがはない。たぶん、日本語では他の漢語<顛末>の意に近い。かなりの推測だが、<始末>おそらく<仕まう>と関連がありそう。<始末する>は<処理する>、<終わらす>だ。<始末が悪い>は<処理に困る>といった意味だ。<仕まう>の関連語に<収める>がある。<仕舞う>の<舞う>は不適当。

4)<思う>の<思い>ほど明確、独立的ではないが、<する>の連用形<し>は体言化して使われている。これは<連用形の体言化>とも言う。<明確、独立的ではない>分注意しないといけない。

体言+体言(大和言葉)で言えば

し甲斐(やり甲斐)、し方(やり方)、仕草、し応え(やり応え)、仕事、仕手(やり手)、し時、し所、し振(ぶ)り、仕業(わざ)

<やり口)>とは言うが<し口>はほとんど聞かない。
<やり様(ざま)>とは言うが<し様(ざま)>はあまり聞かない。<仕様(よう)>はある。仕様がない(しょうがない)。
<やり場>とは言うが<し場)>はほとんど聞かない。きわめて大胆な憶測だが、<し>も<場>も大和言葉の大代表といってもいい。この組み合わせ<しば>は、<しばしば><しばし><しばらく>とは関係ないだろうか?

<し甲斐(がい)>の<甲斐>は意味のない当て字で、甲斐(がい、かい)の成り立ちはやや複雑。<し替える>のところで、説明する。


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<する>の連用形<し>+ <他の動詞>の組み合わせ

今回は主に辞書を使って調べてみた。ただし、<思う>で使った<他の動詞>も利用した。

し合う - お互いにする。XX<し合う>として使う。体現は<しあい>(仕合、試合)。使役形は<し合わす>、<し合わせる>。幸(しあわ)せはこの<し合わす>から来ていると言う。相手と<し合わす>ことによって得られるものなのだろう。したがって、努力しないと得られないのだ。相手と<し合わせ>ば<しあわせ>になる道理だ。 <やりあう>は別の意味になる。

し上がる - <し上げる>の自発、可能。<し上がる>は<完成する>ということだ。<し上げる>は<完成させる>。体言<し上げ>は完成の最終段階のしごと。

し誤(あやま)る - 間違う。<し間違う>とも言う。<やり間違う>はやや口語的。

し急ぐ - 急いで<する>というより、あせって<する>の意。結果は通常あまりよくない。<やい急ぐ>とも言う。

し入(い)る - <強(し)いる>と何か関係はないか? <して><いる>とはどういうことか?
<XXしに><いる>であれば、<XXするために><入る>で <強(し)いる>との関係がありそう。

 し入(いれ)る - 体現化した<仕入れ>もよく使われる。 <して><入れる>とはどういうことか? <XXしに><いる>であれば、<XXするために><入れる>で <仕入れる>との関係がありそう。ただし、こじつけ気味。

し置く - <して><おく>。<置く>そのままにしておくの意がある。体現化は<仕置き>で、元来の意味もたもてるが、<仕置き>は<お仕置き>だ。

し送る - <仕送る>。体言<仕送り>。上にも書いたように、これは誤用だろう。

しおさめる - し終える。 <やりおさめる>はないが、<やり終える>は口語でよく使う。

し落とす - <すべき>ことを<し忘れる>。

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し返す - 或る相手から被害を受けたとき、同じような被害を相手に与える。大げさには復讐(ふくしゅう)。<し返す><し返し>は十分口語的。<やり返す>も口語的。<やり返し>とはほとんどいわず、もっぱら<し返し>だ。 <やり返す>はもっぱら口(言葉)を用いた場合に使い、これは<し返す>ではだめ。

し替(換)える  - <し替(換)える>とはほとんどいわない。<やり替(換)える>は<仕方(やり方)を換えてやる>の意で使う。

この <し替(換)える>は一見関係なさそうだが、<し甲斐>と関連がある。 <し替(換)える><し変える>は<する>ことを変える、あるいは<し方を変える>(しかえ)の意だ。<し方を変える>のはリスクが伴う。リスクが伴うことすることは、成功した場合には、リスクを伴わないことすることをした場合よりも達成感(sense of achievement)、満足感がある。この達成感、満足感が<甲斐>だ。

しかねる - <兼ねる>で原義は<二つのもの(こと)を同時にやること>だ。<しかねる>は<する><しない>を両立できるということだ。<二つの ことを同時にできない>は本来否定の<し兼ねない><し兼ねえない>だ。ところが、実際には<しかねる>は<する><しない>を両立できない という否定の意味で使われている。本来は<しかねない>と否定で言うべきものだ。ところが、この<しかねない>は<しそうだ>の意になる。

し交わす - <やり交わす>も含め、あまり使わない。

し切る - <し切る>は<完全にし終える>だろう。<やりきる>とも言える。慣用用法では体言化している<し切り>を<する>こと。慣用用法の<し切り>は<間仕切り>の<し切り>、<し切る>は<区切りをつける>だ。相撲用語でも<し切る><し切り>というのがある。さて、問題は<し切る(完全にし終える)>から慣用用法の<し切る>がどうして出てきたかだ?<取りきる>は<完全に取り終える>だが、<見切る>は<完全に見終える>ではない。<途中で見るのを切ってやめる>だ。<見切る>にならえば、<っし切る>は<途中でするのを切ってやめる>だ。<する>の途中放棄だ。だが、完全には放棄しない場合、別のことをし始める可能性は高い。これ(途中で切ってやめて、別のことをする)を繰り返して行くと、<間仕切り>のような行為をすることになる。<切りながら>いろいろ違ったこと<する>のだ。相撲用語の<し切る><し切り>は同じようなことを繰り返しやっているが、一回一回<し切る>のだ。

し極(きわ)める -<し極まる>の使役形。<し極まる>は<する>ことが限度にたっする。
< し極(きわ)める>は最良の仕方で<する>になる。

し組む -  慣用用法で<たくらむ>、悪いことを<計画する>でいい意味ではない。元来の<し組む>は<し方(やり方)>を<組み立てる>だろう。この体言化が<し組み>だ。

し込む - <見込む>は<将来に何かを期待する>の意があるが、<し込む>は<将来に何かを期待して今何かをする>の意にならないか?<し込む>には<弟子を訓練する>の意があるが、基本的には同じことだ(将来に期待して今訓練する)。

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し過ごす - <見過ごす><取りすごす><思い過ごす>からの連想では<し間違う>だが、<し過ごす>はあまり聞かない。かたち上自発の<し過ぎる>は<する>ことの過剰。

しすます - <し終える>。<見すます><取りすます>からの連想は難しい。

しそこなう - <する>ことに失敗する。<できない>。<やりそこなう>もほぼ同じ。

しそびれる - <しよう>として実際は<しなかった>。<し忘れる>とは少し違う。


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し出す - <し出す>。<やり出す>で<し始める><やり始める>。<仕出し>は料理屋用に特化してしまっているが、もともとは<作り出す>のようだ。

し立てる - <し立つ>の使役だが、<し立つ>はない。<し立てる>は<見立てた>ことの実行だ。衣服関連の<し立てる><し立て>がよく使われる。

し違う - <し違える>が一般的。

し違える - <し違う>の強調。<やり違える>とも言える。

し付ける -  <し付く>の使役形だが、<し付く>はない。<し付ける>は<訓練する>に近い。<する>ことを身に<付けさせる>か。

しつめる - とことん<する>。 <する>を<煮つめる>感じだ。<しつまる>の使役形だが、<しつまる>はない。<思い込む>、<思い通す>。

し止める - 獲物を捕らえる、殺す。さらに一般化して<獲得する>。

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し直す - <やり直す>もほぼ同じ。

し残す - <し終える>べきことを<し終え>ない。<遣り残す>もほぼ同じ。

しのぐ(凌ぐ) - 少々解説が必要。<のぐ>は<のがす><のがれる>だ。XX(いやなこと、苦しいこと)から<し><のがれ>れば、<しのぐ>ことになる。

しのぶ(忍ぶ、偲ぶ) - これも少々解説が必要。 忍ぶ、偲ぶの二つの異なるいもがある。全く異なるわけでもない。
1)忍ぶ - もとは<し延べる>だ。<し延べる>は<すること>を先へ<延ばす>ことだ。<しのぐ(凌ぐ)>と逆で、XX(いいこと、楽なこと)を先送りすること、すなわち<忍ぶ>だ。
2)偲ぶ - これはややこしいが、 XX(いいこと、楽なこと)を後(うしろ)送りすること、振り返ること、すなわち<偲ぶ>だ。

 し抜く - <し通す>。<やりぬく><やり通す>もほぼ同じ。

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し果てる - <XXして><果てる(終わる>のようだが、<し終える>のようでもある。具体的には?

しばる(縛る) - 大胆推測。<する>+<張る>。

しびれる(痺れる) - 大胆推測。<する>+<張る>の変形、あるいは<する>+<簸(ひ)る>。

しぼむ(萎む) - 大胆推測。下記<しぼる(絞る)>の変形

しぼる(絞る) - 大胆推測。<する>+<張る>の変形。

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しまう (仕舞う) - 最初にも書いたが<しまう(仕舞う)>は重要語だ。<舞う>は意味が合わないので、おそらく当て字。<見舞う>の<舞う>と関連がありそう。 仕舞う(しまう) -もとは<閉まる><閉める>関連の語だろう。また<XXして仕舞う>とある意味での完了の意味でよく使うことからも<仕舞う>は重要だ。また、意味は関連するが<収める>の意の<しまう>も口語ではよく使う。

しまくる - <まくる>が接尾語的用法。

しまる(閉まる) - <しまう (仕舞う)>の項参照。

し向く - <し向く>はほとんど聞かない。使役形<仕向ける>は時に使われるが、XXするように<誘導する>といった意味だ。、体言の<仕向け>は限定的に<仕向け地>で使われる。

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し分ける - 品物(商品)をなんらかの基準に従って<分ける>の意だ。体言<仕分け>もよく使われる。

し忘れる - <す(る)べき>ことを<し>ない。


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Wednesday, July 18, 2012

気は心


<気は心>というが、ここでは、大和言葉化した<気>について書く。

前回で述べたように、<思う>+他の動詞でさまざまな<思い方>ができるが、日本人は思うことが好きなのか、さらに大和言葉の名詞代表とも言うべき<こころ>を使って心理描 写を多様化、深化させてきた。しかも、<こころ>だけでは足りなかったようで中国語起源の<気>まで大和言葉化(*)して心理描 写を多様化、深化をさらに進めてきた。


(*)<気>の大和言葉化

<気>の発音は<き>と<け>がある。

現代中国語(普通話)の<気>の発音は(qi、チまたはチィ)で昔のある地域では<き>に近い発音だったのだろう。広東語では(チ)とはほとんど関係なさそうな<hei>と発音するが、これも、もともとは<khei>ではなかったか。なぜなら、他の普通話の<qi>は、 広東語では汽、起は<hei>だが、企、旗、其、期、起,騎、奇などは<khei>と発音する。<kei>ではなく<khei>としたのは<khei>は <gei>ではないが<ややソフトkei>に対して、<khei>は少しばかり<h>が入る<ハードな<kei>だ。<khei>が<け>に変わるのは難し くない。経済の法則が働く。(四声は無視)。いつ、中国のどの地域(の人々)から輸入したのか調べるのはむずかしいが、とにか日本では<気>の発音は<き>と<け>の二つになり(漢音、呉音とかいうやつかもしれない) 、意味も微妙, というよりはかなり違う。

なお、<チ>は普通話では<qi>はややハードで、<ji>はややソフト, さらに<chi>が<zhi>があって日本人は相当練習しないと聞き取れないし、発音しわけ切れない。

<気(き、け)>は深く日本語化(大和言葉化)しているが、気は気韻、気功、気宇などの純中国語が多いことからしても、純大和言葉ではない。

<気(き)>を含む重箱読みの例

気合い、気負い、気後れ、気落ち、気掛かり、気兼ね、気位い、気配り、気心(こころ)、気さく、気障(ざわ)り、気立て、気違い、気遣(使)い、気詰まり、気取り、気まぐれ、気短か、気晴らし、気まずい、気難しい、気持ち、 気やすい、気弱(よわ)、気らく

<気(き)>を含む湯桶読みの例

いい気、勝気、強気、弱気、悪気(わるぎ)、 堅気(気質とも書かれる)

もちろん、<気(き)>は独立して(名詞)自由に使われる。

動詞 + 気  - する気、やる気、行く気、乗り気(どういうわけか<乗る気>ではない)
形容詞 + 気 - いい気、悪い気
名詞の気 - 気が合う、気がある、気がいい、気が狂う、気が気でない、気が立つ、気が付く、etc.

まあ、これだけあれば、 <気(き>が大和言葉と思っても不思議ではない。

意味は大まかに言えば大和言葉の<こころ> に近い。<気は心>なのだ。したがって、人がかかわっている。

一方、<気(け)>の方も <気(き)>に劣らず日常よく使われるが、どちらかといえば、湯桶読みが多いようだ。また<気(け)>の方は<こころ>というよりは、<なんだかよくわからないが何かある>の<何か>、或いは<なんだかよくわからないが何かあるような様子>を表している、気配だ(気配りではない)。したがって、必ずしも人がかかわっていなくともよい。また、<XXの気(け)がある>で<XXの傾向がある>の意味を表す。<XX気味(ぎみ)>ともいえるが、こちらは<け>ではなく<き(ぎみ)>だ。

 <気(け)>を含む湯桶読みの例

味気、嫌(いや)気、色気、女っ気、男っ気、寒(さむ)気、 吐き気、火の気、人の気、眠(ねむ)気、

<気(け)>を含む重箱読みの例

気高い

 形容詞 + <気(げ)>

あやしげ、いそがしげ、うるさげ、うれしげ、おぼろげ、おそろしげ、きむずかしげ、たのしげ、つまらなげ、すずしげ、むずかしげ、ものうげ、やさしげ、よわよわしげ、


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Monday, July 16, 2012

思う、考える


前々回で<見る>、前回で<取る>を主に他の動詞との組み合わせでで検討してきた。大昔の人のやることを分析すると、世界(あるいは周り)を知覚する(多くは見る)、分析、評価する、決定する、行動に移す(実行)のサイクルだ。知覚の代表は<見る>より抽象的な<知る><分かる>が適当のようだが、他の動詞との組み合わせが多いということでは<見る>が知覚動詞の代表、そして<取る>は決定、実行動詞の代表だ。

<分析、評価する>はつきつめれば<考える>だろうが、<考える>はあまり使われず、大和言葉の代表は<思う>で、これまた代表にふさわしく他の動詞との組み合わせが多い。
Cogito, Sum (I think therefore I am)。<我思う、故に我あり>で<我考える、故に我あり>ではない。おそらくこれは、<考える(kangaeru)>が言葉として長すぎ、語呂が悪いの で<思う>になったのだろう。 また<考える>は純大和言葉でない可能性もある(注)。だが、これはかなり重要な違いで、<思う>が一般的な人の心理表現以外に<男女間の心理>を自然と表わしていまうことがある。<我思う、故に君あり>はラブ レターの中の文句になりうる。したがって、<思う>は思考、特に理論だてた思考には向かないのだ。<考える>がこの役を果たすのだが、日本語では<思う> ほどには発達していない。少なくとも、く他の動詞との組み合わせ>では、<考える>は<思う>に比べはるかに少ない。

(注)spttやまとことばじてん<考える>の語源参照


ここでは、敢えて辞書をあまり使わず<見る>と<取る>を主に他の動詞との組み合わせで検討してきたので、これを利用することにする。つまり、<思う>と他の動詞の組み合わせだが、ことば遊びの要領で、 <思う>の連用形<思い>と<見る>と<取る>で使った<他の動詞>をうしろに加えて、機械的に組み合わせるのだ。また、<思う>は<XXを思う>で他動詞で使えるが、元来意味は自発的なので、使役形は少ないが、今回の組み合わせでは使役形がけっこうでてきた。(やはり<思う>は元来自発的なのだ)。また注意しなければならないのは、

<見る>の連用形、連用形の名詞(体言)化用法は<見(み)>、
<取る>連用形、連用形の名詞(体言)化用法は<取り>
<思う>は連用形、連用形の名詞(体言)化用法は<思い>

 となるが、<見(み)>や<取り>の名詞(体言)化用法は限られているのに対して、<思い>は名詞として独立しており、<思い>がXXする、<思い>をXXすると、普通によくつかわれる、ことだ。


やってみると面白い結果がでた。ただし結構複雑だ。

1)日常よく使われる表現がけっこうある。当然ながらか、恋愛表現と解釈できるものが少なくない。

2)思いがけない<表現>が可能。なかには詩的な表現がある。

3)2)の中には、日常よく使われる<気>を使った表現にほぼ等しいものがいくつかある。これらの表現は、<気>を使った”擬似”大和言葉を<思い>を使った”純正”大和言葉で置き換えることができる可能性があることを示している。

4)出てきた結果を<考える>を使った表現で代える、あるいは利用することができる。日本語での理論的思考の助けになるのではないか。

ここでは、2)と3)と4)に重点を移して、1)については結果を示すだけで、原則として解説を省くことにしたが例外はけっこうある。


<思う>の連用形<思い>と他の動詞の組み合わせ


思い合う - お互いに思う。使役形は<思い合わせる>。<思い合わせる>でもいいが<考え合わせる>とすると、いくつかの違った<考え>を<合わせる>で、創造的思考方法の一つになる。

思い上がる - 慣用語-説明省略。 使役形は<思い上げる>で、<思い>を<上に上げる>とは<思い>を昇華させることだ。<思い>を<棚に上げる>のであれば、一時<思い>を忘れておく。発音上は同じになってしまうが、<思い挙げる>はできるだけ多くの違った<思い>をするということになる。

思い当たる -  慣用語-説明省略。使役形は<思い当てる>で、<思って><当てる>、<推測>が<当たる>の意にもなる。<考え当てる>でもよい。

思い誤(あやま)る - 勘違いする。

思い急ぐ - 思いせく。あせって思う。結果は通常あまりよくない。

思い扱う - <思い>を制御するではない。 <思いながら><扱う>。<気づかう>にならないか?

思い入(い)る - <気がめいる>の代わりとしてはどうか?

思い入(いれ)る - 名詞化した<思い入れ>の方がよく使われる。<気を入れる>の代わりとしてはどうか? <思い入れ>は恋愛用語になりやすい。

思い受ける - 恋愛用語になりやすい。恋愛成就か。

思い失う -  恋愛用語になりやすい。失恋か。ところが、ことはそう簡単ではない。<相手>のそれまでの愛を失えばかなり深刻な失恋だが、<自分>のそれまでの<相手に対する>愛を失うケ-スもある。

思える - <思う>の自発、可能となるが、検討要。

思い置く - <置く>そのままにしておくの意があるので、<思い収めて置く >のような意味で使う。一方、<考え置く>はいい言葉だ。<考え続けていれば>いい考えが浮かぶとは限らない。

思い送る - <思い>を荷物のように送ることはできない。<思い遣(や)る> が慣用化している。

思い行う - <思って><行う>。 <無言実行>の意にならないか?

思い押さえる -  冷静にする(なる)。 <気を静める>の代わり。

思いおさめる - <思い>を外に出さない。 冷静にする(なる)とはやや違う。長くなるが<思いおさめ置く>とも言える。

思い落とす - <気を落とす>に代える。<思い落ちる>の使役形。いずれにしても同じような意味になる。<思い落ちる>はやや詩的だ。

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思い返す - 思い出す、思い起こすに近い。反省の意はないようだ。<思い返る>の使役形。

思い替(換)える  - 発想の転換。
 
思いかねる - <兼ねる>で原義は<二つのもの(こと)を同時にやること>だ。<思いかねる>は<思う><思わない>を両立できるとい うことだ。<二つの ことを同時にできない>は本来否定の<兼ねない><思い兼ねえない>だ。ところが、実際には<思いかねる>は<思う><思わない>を両立できない という否定の意味で使われている。本来は<思いかねない>と否定で言うべきものだ。ところが、<思いかねない>は<思いそうだ>の意になる。

思い交わす - 男女間では特別の意味で実際使われるが、もっと一般化すると、人と人の間で<思いが>空間を飛び交う ような表現だ。

思い変わる - <こころ変わり>の代わりに<思い変わり>。<気が変わる>とはやや違う。

思い代わる - 思い変わるがあるので、<思い代わる>に特別の意味を加えるのはこのましくないだろう。

思い切る - 説明省略。

思い極める -<思い極まる>の使役形。<思い極まる>は慣用語法(説明省略)。<考え極める>は悪くない。<考え尽くす>ともやや違う。

思いくずす - <思いくずれる>の使役形。 <思いくずれる>は失望する。<気を落とす>より深刻だ。

思い下(くだ)す -? うまい説明が浮かばない。

思い決める - 決心する。<思いを固める>が使われているようだ。

思い組む - 理論的に考える。<考え組む>はしっくりしない。

思い消す - <忘れよう>とする。<忘れる>は他動詞だが自発の感じだ。<思い消す>とすれば自発の感じは無くなる。

思い越す - <見越す>と同じような意味で使える。すなわち、障害(物)を越えて<思う>。 ただし、<思い過ごす>があるので、混乱するか?

思いこなす - <思い>を制御する。いい言葉ではないか? <思い扱う>もある。

思いこぼす(思いこぼれる) - 1)あることを忘れる。 2)<思い>あふれてこぼれ出る。
3)結果として、<思い>が足りなくなる。 面白いことばだ。

思い込む - 説明省略。 使役形は<思い込める>だが可能にもなってしまう。<思いを込める>は主に恋愛用語。 <思い込む>と<考え込む>は違う。

 思いこわす - <思いくずす>と同じように使える。<思いこわれる>の使役形。

------
思い下げる - <思い下がる>の使役形。<思い下げる>は<希望、要求>を下げる。あるいは<取り下げる>の連想から<思い>を捨てる。

思い定める - 決心する。<思いを固める>が使われているようだ。<思い定まる>の使役形。

思い仕切る - <思い>を統制、制御するの意。<思いこなす>に似る。

思いしまる - <気が引き締まる>に代える。使役形は<思いしめる>。

思い調べる - 特に意味がない。

思い知り置く - おぼえておく。

思い知る -  説明省略(慣用)。使役形<思い知らせる> 。 

思いすえる - 決心する。決心は人生上の需要項目。<気をすえる>には代えられない。<思いすわる>の使役形。<思いがすわっている>は<肝っ玉がすわっている>上品版、女性版だ。

思いすがる - あまり聞かないが、悪くない表現だ。

思いすく - <見すく><見すける>からの連想でいけば、<思いすく>は<思いが透けて>見えるとなるか?

思い過ごす - 慣用で<思い過ごし>と体言化して使う。<思い違い>の意に近い。<思い過ぎる>、体言<思いすぎ>は<思い>過剰の意。

思い捨てる -   あきらめる。

思いすます - <考え>の焦点をしぼる。<思いすませる>は<思いすます>の強調。

思いそこなう - <思い>が失敗することはない。<思いそこない>は不十分な<考え>といえよう。とすれば、<思いそこなう>は<考えが足りない>ことになる。

思いそびれる - <思おう>として実際は<思わなかった>。ありうることだが、<思い忘れた>は<見忘れた><取り忘れた>に比べればほとんど使わない。

思いそれる - あてが外れる。

思いそろえる - いろいろなおこりそうなことの対して<こころ>の準備をする。

------
思いだす - 説明省略。<考え出す>はいい言葉だ。

思い立つ - XXが<思い立つ>ではなく、XXを<思い立つ>と言う。<思い付く>に似る。<考え付く>はあるが<考え立つ>はない。中国語に<想起来>という言い方がある。<考えが出てくる>ではなく<思い出す>だ。

思い立てる - <思い立つ>の使役だが、<思い立たせる>もある。

思い違う - 説明省略。

思い違える - <思い違う>の強調。

思い散らす - <まとまらない考えをする>ではどうか?<考え散らす>よりはいい。<思い散る>の使役形だが、<思い散る>は恋愛用語だ。<考え散る>は<考えに集中できない>。

思い散らかす - <思い散らす>の強調。<まとまらない考えをする>の強調。

思いつかる - <見付かる>の<見>を<思い>に換えたもの。したがって<思いつかる>は<思い付ける>自発、可能。<思い付く>の使役形は<思いつかす>だが、<思い付ける>ともいえるが、<思い付ける>は可能にもなる。<思い付く>の自発、可能、使役はわけが分からなくなる。いづれにしても、実際によく使われるのは<思い付く>だ。

思い付く - <思い>が<付く>はいい表現だ。 創造の一過程を示している。<考え付く>もいい表現。

思いつくろう - 本心を見せないようにする。 <気持ち>をごまかす。 かなりな心理描写だ。

思い付ける -  <思い付く>の使役形。<思い>の使役も紛らわしい。<気をつける>には換えられないようだ。

思いつぶす - <思いつぶれる>の使役形。<思いくずす>、<思いこわす>の同類。<思いつぶれて>は失望、失恋だ。

思いつめる - <思いつまる>の使役形。<思い込む>、<思い通す>。<考えつめる>は悪くない。<考えつめすぎる>のはよくない。

思い積もる -恋愛用語だ。使役形は<思い積もらせる>

思いとどめる - <思いとめる>の強調。自発形<思いとどまる>は慣用。説明省略。

思いとめる - 記憶する。<とめる>は<止める>、<留める>、<泊める>がある。

思い取る - うまい説明が浮かばない。<取る>は重要語なので、敢えて考えれば、1)思いながら取る、2)思って(考えて)から取る、3)XXの思いを取る。

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思い直す - 説明省略。

思いなす - <思いなし>は<思い無し>ではない。<思いなしか>は慣用句。<思いなす>はほとんどきかないが、いい言葉だ。<思い>を<なす>とは言い換えれば<考える>ことだ。<思う>は自発的だが(思われてくる)、<思い>と名詞化して独立させ、これに<なす>という能動的な動詞を加えれば、<思う>が能動化する。

思い逃す - <見逃す><取り逃がす>から恋連想すれば、<思うつもり>が実際は<思わなかった>となる。

思いのける - 思わないようにする。考えない。

思い残す - 説明省略。

思い除く - <思いのける>に同じ。 <思い覗(のぞ)く>は隠そうとしても<思い>が覗いて見えるという心理描写になる。

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思いはからう - <思いやる>に似るが、やや社会性がある。

思いはかる - 計画する。 いい言葉だ。 <考えはかる>は硬すぎる。

思いはぐれる - 恋愛用語では、これまた失恋に近い。<考えがまとまらない>とも取れる。いずれにしてもやや詩的だ。

思い運ぶ  - 1)<考え>を伝える。 2)<考え>を進める。<思い通りに運ぶ>という慣用句がある。

思いはずす - <思い付ける>の反対だが、<思い付ける>の意味が不明。恋愛用語としては、愛を受け入れない。これまた失恋に近い。

思い果てる - 恋愛用語では、これまた失恋。<考え果てる>は<考え>が行きづまる。

思いはなす - 1)<離す>とすれば <思いはずす>とほぼ同じ。 2)束縛から<放す>とすれば、とらわれずに(自由に)思う。

思いはなつ - 恋愛用語。 <思い(愛)>を発表する。

思いはらう -  くだらない<考え>を取りはらう。

思い晴らす - <思い晴れる>の使役形。

思い張る - 1)<見張る>からの連想からすれば、思いを張りめぐらす。 2)思いのテンションが高まれば、思いが張る。

思い引く - <思い>が引く。未練が残る。

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思い巻く - 1)いろいろな思いをつなげながらまとめる。2)思いが竜巻のようにぐるぐる巻く。1)2)ともわるくない表現だ。

思い紛(まぎ)らす - <気を紛らす>換えるえられる。
<まぎれる>はあるものが他のものに混じって区別がつかなくなるの意だ。<まぎらす>は他動詞で意図的に、区別がつ かなくなるように混ぜるだ。

思い紛(まぎ)らわす -<思い紛(まぎ)らす>の強調。

思い紛(まぎ)れる - <取りまぎらす>の自動詞(自発形)。

思いまくる - <まくる>は接尾語的用法。むやみやたらに思うことだ。

思い混ぜる - 創造的思考方法の一つ。 <考え>を混ぜ合わせる。

思いまとめる -頭の中で<思い>をまとめる ---> <考える>。いい言葉だ。<思う>に比べると<考える>は思考過程、進行、進展が感じらる。、

思い回す - いろいろ考える。 <思いまとめる>には至らない。<考え回す>はよい意味でも悪い意味でも使える。

思い回る - <思い>がぐるぐる回って、進展しない。

思い乱す - <思い乱れる>の使役形ともいえようが、<思い乱れさす>とも言える。

思い向く - XXの方向に<思い>が向く。やや詩的な表現。恋愛用語とは限らない。

思い結ぶ - 1)<思い>がかなう。2)いくつかの<思い(考え)>を結び合わせる。

思い持つ - <考え持つ>も含めて、いい説明が考え浮かばない。<持つ>も重要語なので、敢えて考えれば、XXという<思い>を<持つ>か? 日本語の<持つ>は具体的で普通<もの>を<持つ>だ。 <思い>や<考え>を持つは西洋的だ。 I have a good idea.

思いもどす - 1)思い(愛)を取り戻す。2)思い(愛)を元に戻す。<考え戻す>は思考過程の一つ。

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思いやめる - あきらめる。非使役形は<思いやむ> - 1)思い(愛)がなくなる。2)思考停止。

思いやる - 日本人は<思いやり>が好きで、<思いやりの心が大切>などという。

思いよせる - 好きになる。恋愛用語とは限らない。<思い>が目に見え、動いているような表現だ。

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思われる - 受身、被害、迷惑。あまり使わない方がいい。

思い分ける - <思い(考え)>を分けることだから、分析だ。<思い分かる>の使役ということになるが、<思い分かる>は<思い知る>とは違う。<思い 分かる>はあまり聞かないが、いい言葉だ。<思って><理解する>のは単に知識を吸収するのとは違う。<学ぶ>は<まねる>からきている。<勉強する>は 中国語からすれば変な言葉だ。 <思い分かる>の方がよっぽどいい。

思い渡す - <思い>を伝える。



sptt




Sunday, July 8, 2012

Give and Take or <与える>と<取る>


英語では<Give and Take>というが、これと似た日本語に<やりとり>というのがある。だがニュアンスはかなり違う。<Give and Take>は文字通りでは<与えると取る>だが、これでは英語のような特別の意味はない。<やりとり>はどちらかというと空虚でビジネスライクだ。"A little more give. A little less take. " という詩があった。<与える>と<取る>をよく調べてみると面白いことがわかる。

<与える>が日常ほとんど用いられないのに比べて、後で見るように(興味と時間のある人だが)、<取る>は他の動詞や名詞と結びついて、一番よく使われる日本語の動詞のひとつだ。日本人は<与える>よりもはるかに<取る>が好きなのだ。<与えよ、されば与えられん>は聖書の中だけにある。使われる言葉の頻度を基準にすると、日本人全体はあきらかに利己主義者だ。とにかくよく<取る>、<取りまくる>のだ。

<与える>が日常あまり用いられないのは口語らしくないからだろう。<与える>に代わって比較的よく使われるのは<やる><あげる>だ。<くれる>も使われるが、<くれる>は相手の立場にたっての<与える>、すなわち<あたえてもらう>だ。丁寧語は<下さる>だ。謙譲語は<いただく>か? また<くれてやる>なら<与える>になるが、上の者が下の者へという感じだ。このように<やる><あげる><くれる>は丁寧語や謙譲語がからんでややこしいが、あまり問題にならないのはあまり使わないからだろう。

<見る>が観察、認識の大和言葉であるのに対して<取る>は行動、実行、執行の大和言葉だ。行動、実行の大和言葉の代表は<する><やる>が一般的で<行う>は口語ではあまり使われない。また<取る>は<手に取る>が原義のようだが、発音からしても<手>と<取る>は関連があろう。

<取る>は前回の<見る>と同様よく使われるだけあって、多義語のように見えるが、英語の相当語<to take>や<to get>にくらべると多義語ということはなく、<取る>の原義が生きている。英語の相当語<to take>と<to get>については詳しくは別の機会に見ることにするが、<to take>は<取って行く><持って行く>、<to get>は<取って来る><持って来る>の原義があり、ただ<取る>だけではなく<取る>に<行く>あるいは<来る>がともなっている。ただし、<取って行く><持って行く>には<to bring>があり、<(行って)取って来る>には<to fetch>がある。それでも<to take>や<to get>がよく使われるのはそれなりの理由がありそうだ(別の機会に検討)。

上に述べたように<取る>多義語のように見えるが、英語の相当語<to take>や<to get>にくらべると多義語ということはなく、欲しいもの、好ましいものを<手に取る><手に入れる(得る)>の原義が生きている。原義以外では、

1)不必要なもの、好ましくないもの<取る>で<取り去る>、<取り除く>、<取り外す>などとして用いる。英語は動詞の後に<off>や<away>の副詞を加わる。英語ではこの意味では普通<to remove>が使われる。

2)<聞き取る>、<嗅ぎ取る>、<感じ取る>など感覚器官を通じて<知る>こと、現代風に言えば情報を<受ける>こと。<聞き知る>、<見知る>があるが、<取る>ほどの積極性はない。また<知る>は<取る>と違って、あまり他の動詞と結びつかない。

3) <読み取る>、<汲み取る>は<理解する>に近い。この場合、単に<XXを取る>ではなく<XXの意味を取る>。または<評価する>の意で<XXをYYと して取る>となり、<見る>の用法に近い。<見取る>も原義は感覚器官を通じて情報を<得る>ことだが、<理解する>の意で用いられることもある。<見取 り図>は見て、理解して、分析、判断して図に表したものだろう。<理解する>の大和言葉 は<わかる>だ。<わかる>もあまり他の動詞と結びつかない。<わかる>は動詞のようだが、<xx を理解する>とちがって<xx がわかる>で自動詞のようだが、<太郎は xx がわかる>で、これは<象は鼻が長い>と同じ構造。つまり<わかる>は<長い>と同じで形容詞とも考えられる。しかし、活用は<わからない、わかって、わかる、わかる、わかれば、わかろう>動詞の活用だ。

4)考えた後、または評価検討した後選択する。 選択はある種の決断だ。
文字通りだが<選び取る>。AではなBを取る。A、B、C の中からをAを取る。

5) 4)の選択(決断)の後は実行だ。<実行する>は<行う>があるが、よく使われるのは<する>だ。 <する>の連用形が<し>となってしまうので、<する>と気づかずにいることも多い。仕上げ、仕方、仕組み、仕事。ところで、<実行の継続>、運営、管理、統制ということになるが、調整を含めた<実行の継続>ということでは再び<取る>がでてくる。
舵を取る、つかさ取る(司る)。 残念ながら、この<つかさ取る>は古語に近い。
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以下、興味と時間がある人は読み続けてください。


<取る>と他の動詞との組み合わせ。

他の動詞との組み合わせ -(1)

他の動詞 + 取る (連用形に限る、XXして<取る>では理論上動詞の数だけあることになる)

<取る>にも実にいろいろな<取り>方がある。

a)物理的に主に手を使う

ちぎる取る、掴(つか)み取る、摘み取る、剥ぎ取る、むしり取る、もぎ取る、破り取る 

b)物理的に手や道具を使う
えぐり取る、切り取る、くずし取る、汲(く)み取る、削り取る、消し取る、こすり取る、搾り取る、すくい取る、抜き取る、掃き取る、はずし取る、はたき取る、巻き取る

c)泥棒、強盗まがいの<取る>
奪い取る、脅し取る、隠し取る (写真、<隠れ取る>が正しいようだが)、掠(かす)め取る、掏り取る、騙(だま)し取る、盗み取る

d)積極的に<取る>の意味は弱く、与えられたものを<取る>、あるいは相手の合意、了解のもとに<取る>
受け取る、買い取る、勝ち取る、引き取る(特に物理的に<引く>わけではないので比喩的)

e)人の感覚器官を通じて<知る>、情報を<得る>
嗅ぎ取る、感じ取る、聞き取る

f)記録に残す
書き取る、写し取る、(記録を取る、コピーを取る、出欠を取とる)

g)比喩的用法が主
打ち(討ち)取る、汲(く)み取る(比喩用法), 見取る、読み取る


他の動詞との組み合わせ -(2)

<取る>がよく使われまた多義語のように見える理由の一つは<取る>が大して特別の意味を持たない、<取る>の意味が薄れて接頭語のように用いられることが多いことによる。

<取る>の連用形 <取り> + 他の動詞

取り合う - 互いに取ろうとする。

取りあえず - <取り合えず>ではない。<取敢えず>だ。これは難しい。<敢える>は<敢えXXてする>, <敢えてXXしない>, <敢え無く>ぐらいだろう。また翻訳調と言えなくもない。

注)敢えてXXする(dare do, dare to do)、敢えてXXしない(dare not do, dare not to do)
 <dare>は助動詞(動詞の原形を取る)でも普通の動詞(to 不定詞を取る)として使われるが,
たいていは助動詞用法。英語の助動詞は特別なので、解説が必要なり、大和言葉に適当なのがないか、あるいは翻訳調の方がいいためか、漢語(読み)由来の<敢える>が選ばれ(取られ)たのだろう。日本語でも<敢える>自体ではほとんど用いられないから、ある意味では助動詞的だ。
ところで、この<敢えてXXする(dare do, dare to do)、敢えてXXしない(dare not do, dare not to do)>は意味的にもおもしろいところがあり、別の機会に検討する予定。

取り上げる - 1)取ってから手の届かないように上に上げる。権力、暴力を使って無理やり取る。2)評価、検討してから選び出す。例)意見を取り上げる。

取りあつかう - 商売用語。<取る>は商売、経営に関する用語が多い。商売、経営は空論ではなく実践だ。<取り扱う>以外に、取りそろえる、取り交わす(契約、約束)、取り決める、取り消す、取り仕切る、取締役、取りそろえる、取引(<取り引く>という動詞からか?<引き取る>は意味が違う)、取り寄せる。買い取る、下取る。

取り集める -<取り>は接頭語に近い。

取り急ぐ - <取り>は接頭語に近い。取りあえず急ぐか?

取り入る - <関係をつける>のような意味合いで用いられる。うまくやって<中にはいる>がもともとの意味だろう。

取り入れる -外にあるものを<取って入れる>。比喩的にも用いられる。

取りえる (取れる) - <取る>の自発、可能。

取り置く - <置く>は接尾語的用法で、<そのままにしておく>という意味がある。

取り行う - <取り>は接頭語に近いが、<執り行う>とも書くように(言うではない)どちらかと言うと<公け>の場で使う。

取り押さえる - 文字通り<取って><押さえる>だが、動いていいる人や動物に対して用いられる。

取りおさめる - 文字通り<取って><収める>。比喩的に<取り>は接頭語で<治める>の意でも用いられる。

取り落とす - <取ろうとして>落としていまう。<取った>ものを<落とす>ではない。<取り>は接頭語的な用法で、手や道具を使って何かにくっついているものを<落とす>の意もある。

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取り返す - 一旦<取られた>ものを再び<取る>。<取り返しがつかない>は必ずしも<取られた>ものではなく、一旦<してしまった>こと、一旦<過ぎてしまった>ことだ。<取り戻す>とも言える。

取り替える  - <取り>は接頭語に近い。口語では区別がないが、<取り替える><あるいは<取り換える>と<取り代える>は違う。<取り替える><取り換える>はXをX
とほぼ同じX'<で>あるいは<と><替える><換える>(交換)だが、<とり代える>はXをXとやや違うY<に><かえる>だ。

 取りかねる - これはややこしい。<兼ねる>で原義は<二つのもの(こと)を同時にやること>だ。<取りかねる>は<取る><取らない>を両立できるということだ。<二つの もの(こと)を同時にできない>は本来否定の<兼ねない><取り兼ねえない>だ。ところが、実際には<取りかねる>は<取る><取らない>を両立できないという否定の意味で使われている。本来は<取りかねない>と否定で言うべきものだ。ところが、<取りかねない>は<取りそうだ>の意になる。<取りかねる>は<取る>のか<取らない>のか? この<取る>は比喩的に<選ぶ>の意味でも使われる。  

取り交わす - <互いに取る>だが<取り合う>とは違う。 <取り>は接頭語に近く、<取り交わす>多くは比喩的に用いられる。 約束、契約を<取り交わす>。

取り代わる - この<取り>もは接頭語に近い。XX<を><取り代わる>ではなくXXに><取り代わる>で用いられる。

取り切る - すっかり<取る>の意。<切る>は接尾語的だ。

取りくずす - <取り>は接頭語に近い。

取り決める -<取り>は接頭語に近いが、個人ではなく、会社や団体の中で用いられ社会性がある。個人では単に<決める>だ。<取り決め>は契約、約束の大和言葉だ。また、<取る>のは社会性を持たせる働きがある。上述の<取り交わす>や後に出てくる<取り仕切る>、<取りしまる>。

取り組む -原義は相撲用語ではないか?

取り消す -これまでに起こったこと、決めたことなど、過去のことを無いものとする。

取り越す - <取り越し苦労>としてよく使われる。<取って><越す>ではない。<越す>は普通の<越える>、<越して><XXをする>ではなく<前もって><XXをする>。<見越す>もこの用法。

取りこなす - <取り>は接頭語に近い。

取りこぼす - 相撲用語。<こぼす>、<こぼれる><こぼれ落ちる>の他動詞で、本来<とれる>はずのもが(を)<取れない>の意。

取り込む - <取り入れる>の意に近い。

取りこわす - <取り>は接頭語に近い。

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取り下げる - 文字通りには<取って><下げる>だが、これは<取りおろす>が一般的。<取り下げる>は比喩的用法で使われ、<一旦決めたこと、約束したことを無いものとする>の意で、<取り消す>に近い。

取り定める - <取り>は頭語に近いが<取り>で社会性が加わる。

取る去る   - <去る>は離れて行くの意だが、<取り去る>で<取り除(のぞ)く>の意だ。始めの方でかいたが、<取る>自体に不必要なもの、好ましくないもの<取る>で<取り去る>、<取り除く>、<取り外す>の意がすでにある。

取りしまる - 権力をもって他人の行動に制約を加える。社会性が強い。

取り仕切る - <取り>は頭語に近いが<取り>である比較的小さい組織内での社会性が加わる。ここでの<仕切る>は統制、制御するの意。

取り調べる - <取り>は接頭語に近いが、権力をもって<調べる>で社会性が強い。

取りすえる - これも<取り>は接頭語に近い。<すえる>は<前もって決めたところに置く>こと。<取り付ける>でもよいが、大きいもが対象。

取りすがる - <取り>は接頭語に近い。<すがる>の強調では<すがりつく>がある。

取り捨てる -   これも<取り>は接頭語に近い。

取りすます - <取って><すます>では何のことだかよく分からない。<取り>は接頭語に近い。<すます>は<澄ます>ではなく<済ます>だろう。<済ます>は<終える>。何かを<し終える>とあるもの、他の人との関係が無くなる。<すます>はこの<もう関係が無い>という態度を言うのだろう。

取りそこなう - <取ろう>として失敗する。

取りそびれる - これも<取ろう>として失敗すだが、<言いそびれる><聞きそびれる><書きそびれる>ほどには使われない。<取りそこなう>が普通。<見そびれる>もあまり用いられない。<見そこなう>は別の意味。

取りそろえる - これも<取り>は接頭語に近い。 商売用語。

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取りだす - 文字通り<取って><出す>。 おもしろいのは、<取り出す>直訳英語が<to take out>だが、これはファーストフード店では<持ち帰り>になる。

取り立てる - <評価し、選び出す>の意と強制的に<取る><取り上げる>の意がある。

取り違う -  XXをYYと取り違う。

取り違える - XXをYYと取り違える。 <取り違う>の強調。

取り散らす - <取り>は接頭語に近い。

取り散らかす - これも<取り>は接頭語に近い。

取り付く - <取り>は接頭語に近く、<つく>の意だが、いやなものが<取りつく>。そして<付いている>いやなものを<取る>ことになる。<付く>と<取る>反対語だ。

取りつくろう - <取り>は接頭語に近い。<つくろう>は<ととのえる>、<きれいにする>、<よく見せる>の意味だ。よい意味では用いられない。

取りつける - いくつかの違った意味がある。a)文字通り<取って><つける>で、<取り外す><取りはなす>の反対。大きなものが対象では<設置する>になる。同じよな意味で大和言葉の<すえる>がある。<取ってつけたような>があるが、これは特別な意味がある。b)名詞<取りつけ騒ぎ>としてもちいられ、動詞<取りつける>もこのような意味があるが、あまり使われない。

取りつぶす - <取り>は接頭語に近い。

取りとめる - <取りとめもなく>で用いられるが、<止めることなく>の意だろう。 <取り>は接頭語に近くなる。

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取り直す - 相撲用語がもともとだろう。

取りなす - <なす>は<する>で抽象的な語。<取りなす>は<うまく事を運ぶ>で、比較的小さい組織内で用いられる。<取り持つ>も時に同じような意味で使われるが、<介>だ。

取り逃す - <取ろうとして、取れずに>逃がす。<取って>から<逃がす>のではない。

取りのける - <取って><のける>。<取りのぞく>に近い。

取り残す - 文字通りの<取って><残す>ではなく、<取りきれない>の意。

取り除(のぞ)く - 文字通り<取って><除く>。

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取りはからう - <うまく事を運ぶ>ことだが、<取りなす>よりは、やや大きな組織で用いられ、<はからう>が<はかる>(評価)、<はからう>(計画)の意から、社会性が加わる。

取りはかる - <取りはかる>の強調が<取りはからう>。<取りはかる>はあまり用いられない。

取りはぐれる - <取り逃す>の意に近いが、あまり用いられない。

取り運ぶ  - 文字通りには<取って><運ぶ>だが、ほとんど使われない。<運ぶ>だけでよい。<取り運ぶ>は<取り行う>の意に近い。

取りはずす - <取り付ける>の反対。

取りはなす -  <取り付ける>の反対。<取りはずす>とほぼ同じ。

取りはなつ - <取り>は接頭語に近い。<はなつ>は<束縛をといて自由にする>の意。

取りはらう -  物理的に<取って><はらう>の外は、<取りのける><取りのぞく>に近い。

取り引く - <取引(とりひき)>という名詞はよく使うが、この意味での<取り引く>あまり聞かない。<おとりひきをお願いします>がある。

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取り巻く - 文字通りの<取って><巻く>では使われない。<取り巻く>は<取り囲む>にちかいが、<取り巻き>や<取り巻き連中>では特別な意味になる。

取り紛(まぎ)らす -これはやや複雑。<まぎれる>はあるものが他のものに混じって区別がつかなくなるの意だ。<まぎらす>は他動詞で意図的に、区別がつかなくなるように混ぜるだ。ただし<取りまぎらす>は自動詞(自発)的に用いられる。<取り紛(まぎ)れ>も使われる。

取り紛(まぎ)らわす -<取り紛(まぎ)らす>の強調。

取り紛(まぎ)れる - <取りまぎらす>の自動詞(自発)形。

取りまくる - <まくる>が接尾語的用法。

取り混ぜる -  <取り>は接頭語に近い。

取りまとめる - <取り>は接頭語に近い。<まとめる>は乱れているもの(こと)、雑然としているももの(もと)を、<ととのえる>、<整然とさせる>ことだ。<取り>を前につけると、社会性をおびる。組織を管理(マネジメント)するだ。

取り回す - <取り>は接頭語に近い。文字通りの<取って><まわす>の意もある。

取り回る - 文字通り<取って><回る>、<取りながら><回る>。

取り乱す - 文字通りの<取って><乱す>の他動詞用法はないようだ。<取り乱す>は自動
詞で使われる。<自制心を失って行動する>といった意味だ。

取り結ぶ - 比喩的に使われ、<仲介してまとめる>の意。

取り持つ - これも比喩的に使われ、<取り結ぶ>の意に近いが必ずしも<まとめ>なくてもいいようだ。<仲介する>の意。

取りもどす - 一旦取られたものを努力して、あるいは強制的に<取って><戻す>。<取り返す>も同じような意味で使われる。

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取りやめる - <取り消す>の意に近い。これまに決めたこと、予定などを無いものとする。

取りよせる - <取り集める>の意に近い。

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取られる - 受身、被害、迷惑

取り分ける - <取って><分ける>は<分配する>の意がありそうだが、あまり聞かない。 <とりわけ>は慣用語で<特に>の意。 <より分ける>が<選ぶ>の意があるから、<取った>のち<より分ければ><特に>の意になる。



4)<取る>関連の名詞(大和言葉)

下取り、引き取り、横取り、取り決め(契約、約束の大和言葉)、取り消し(”取消”は音読みで中国語になっている)、取り口、取りざた、とりなし、取引、取り巻き、取りやめ。




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Tuesday, July 3, 2012

見る、 見える、見せる、見止める、見なす


文法的には、<見る>は他動詞、<見える>は自動詞だが自発、可能の意味もある、<見せる>は使役に見えるが、英語の to show 相当で、<見る>とは別の意味の他動詞。<見る>の使役は<見らせる>、<見らさせる>とは言わず<見さす、見させる>だが、これは一方英語の to show 相当の他動詞<見せる>とほぼ同じ意味になる。一方<見せる>の使役も可能で<見させる>。<見せさせる>は可能だが、ほとんど聞かない。とにかくややこしい。

聞く、嗅ぐ、味わう、感じるなどの他の感覚動詞と違い、<見る>は活躍場が大きい。<感じる>は大和言葉がないようだが、<覚える>が相当しよう。<覚える>は<思う>と同じグループだろう。<見る>と<見える>は認識の大和言葉といえよう。<XXを見る>ではなく<XXと見る>や<XXと見なす>は、見たことを考え、分析してから、結果や評価や判断を示すことであるから、きわめて深くかつ広く認識にかかわる大和言葉だ。認識の<認>が<認める>に当てられるが、<見止める>あるいは<見留める>がもとの大和言葉であることからも、 <見る>と<見える>は認識の大和言葉だ。

<見る><見える>はあるモノが存在することを認識することだ。見なくても、あるいは見えなくても物理的には<あるモノはある>のが事実だが、人が少なくとも生きていくためには認識は必要だ。この世が認識に過ぎないとすれば、<見る>はきわめて重要だ。

<話が見えない>は<話がわからない> ということだから、<見る>は<わかる>と同じようにも使われる。英語の<I see.>=<I understand.>と同じだ。純粋の認識を意味する言葉としては<知る>、<わかる>がある。<わかる>は<分かる>、<分ける>で、すなわち分析的な思考をさしているのは日本語の特長といえる。

英語では<to look>と< to see>が代表の二つだが、ほかに to watch (しっかりと見つづける)、 to gaze (しっかりと見つづけるだが、ただし驚きや尊敬の念が加わる)、to stare (じろじろ見る)、 to peep (のぞく)、to glance (ざっと見る)などがある。<見える>は to seem、 to appear、 <見せる> to show などとなる。<to look>と< to see>の違いをのべると英語の話が長くなるのでやめる。

中国語は<見>は二次的で、<再見>はあるが、<看>が主役だ。<看>と<見>の組み合わせで<<看得見>(見える)、<看不見>(見えない)となる。<看到>は<見つかる>、<看不到>は<見つからない>だ。<看><見>以外に、観、視、望、瞧(日本語ではほとんど使わないが中国語の口語だ)。観、視、望はどちらかというと文章語か? 香港の広東語では<望>は<注視する>の意味で口語としよく使われる。

<再見>は<また見ましょう>というよりは<また会いましょう>で、英語でも<See you again>だ。 <見る>は<会う>の意ではあまり使われない。おもしろいのは、<to see a doctor>でこれは<医者を見る>ではなく医者に見てもらう>の意だが、日本語のほうが分析的で正確だ。 <to be seen by a doctor>でもない。中国語は英語と同じで<看医生>だ。日本語の<見る>の受身<見られる>は自発の意味もあり(XXと見られる)ほかに、被害、迷惑の意もあり、<to be seen by a doctor>の直訳く医者に見られる>は特殊な状況での発話になる。

日本語の<見る>は多義語だ。<ながめる>、<のぞむ>、<のぞく>が<見る>関連の大和言葉としてあるが<見る>に比べる と使用頻度ははるかに少ない。一方英語は日本語に比べて、<見る>の分析が進んでいる。<見る>にもいろいろ違った見方があるのだ。ただし、日本語の<見 る>は後ほど見るように他の語、特に他の動詞との組み合わせでさまざまな意味を生み出せる。日本語では、<見極める>、<見越す>、<見通す>、<見抜く>など積極的、肯定的な語もあるが、<見あやまる>、<見失う>、<見落とす>、<見違える>、<見逃す>など否定的な語も多い。これは<見ること>、すなわち認識のむずかしさや限界を示している。<見抜く>は英語の insight とともにいい言葉だ。

さて日本語の<見る>だが、多義語としては次のような本来以外の意味ががある。

新聞を見る (to read ) -ただし、じっくり読むというよりは、ざっと読む(目を通す)こと。
面倒を見る (to take care of, to look after)
できばえを見る (to evaluate)
痛い目を見る (to experience)

以上は <XXを見る>だが<XXをYYと見る>あるいは<XXを形容詞(く, に)+見る>では、
評価結果を示すことになる。

Aを犯人とみる。
事態を重く(おおげさに)見る。

<XX(し)て見る>は <to do and see>だが < to try>の意味になる。

言ってみる、書いてみる、やってみる、etc.

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以下は興味と時間がある人は読み続けてください-大和言葉の面白さと味わい。

1)<見る>+他の動詞 (あいうえお順)

方向関連は文字通りのいみでは、方向を示す副詞が前にくる。比喩的な意味では、<見る>の後に方向動詞が来る形で組み合わされる。

上(の方)を見る - 見上げる
下(の方)を見る - 見下げる、見下す、見落とす
前(の方)を見る
後ろ(の方)を見る - 見返る
はすに(はすの方)見る
横を見る
わきを見る
まわりを見る - 見まわす
XX越しを(に)見る - 見越す
XXを通して見る  - 見通す、見抜く
前から見る
後ろから見る
横から見る
わきから見る
上から見る - 見下げる、見下す、見落とす
下から見る - 見上げる


<見る>は<取る>とならんで他の動詞との形で組み合わさで実にさまざまな意味が生まれる。

見合う - 文字通りの<見て会う>、<お見合い>のほかに<つりあう>の意がある。<会う>は<合う>と同じで、<近づいてひとつになる>といった原義だ。

見上げる - <尊敬の念で見る>の意味がある。<見上げたやつだ>は上位が下位をややさめた目でみた評価だ。

見当たる - <見つかる>の意に近いが、通常<見当たらない>。

見あやまる -  見違う、見違える、見そこなう、見くびるなど、<見る>を用いた評価の失敗表現は多い。

見合わせる - 文字通りの<見てあわせる>のほかに<やめておく>、<延期する>の意がある。

見い出す - 見えない(かくれた)もの、ことを見つけようとする感だが、日本語ではさほど積極性はない。

見入る - <じっと見る>という感じ。

見受ける - <印象を持つ>といった意味。ただし<受ける>から受身だ。さらに<XXが見受けられる>でますます受身だ。

見失う - 通常<なくす><なくなる>でもよさそうだが、<見失う>に特別な意味もある。<見続けていたものが視界から消える>といった意味だ。

見えすく - <隠そうとしても見える>といったやや複雑な意味。見えすいたうそ。

見える - <xxが見える>で自動詞。自発(xxが見えてくる)、可能の意もある。可能は<見+得る>。聞こえる、嗅げる(嗅ぎえる)、味わえる。

見送る - <送る>はモノを<運びとどける>以外に<人を送る>がある。後者の<送る>は<人を運びとどける>の意ではなく、去っていく人に目的地またはある地点までついて行く>の意だ。英語では<to see you off>以外に<to see you home>という表現があり、これは<家で会う>ではなく、<家まで送る>の意だ。

見おさめる - <見終える>(完了)の意。もっぱら名詞<見おさめ>が使われる。

見落とす - 見るべきもの(こと)を見ない。<見過ごす>、<見のがす>というのもあるが、使われ方は違う。

見おろす - 文字通り<下を見る>で、比喩的な意味では<見くだす><見下げる>が用いられる。
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見返す - <見られた>ので<見返す>の意がある。これ以外に<見下げ>られていた人が立場が変わり(あがり)かつて<見下げ>ていた人を今度は<見下げる>といったやや複雑な心理下で使われる。

見返る - 通常<振り返る>で、<見返る>はもっぱら名詞<見返り>が使われ、<見る>意味は薄れている。<見返り>とは担保とか返礼、さらには賄賂の意味だ。<見返り>を期待して賛成する。

見限る - めんどうを見ていくのをやめる。

見かける - ときどき<目にする><目にした>というような意味。 名詞の<見かけ>は<見かける>の意味薄くなっている。

見かねる  - これはややこしい。通常<見るに見かねる>で使われる。<かねる>は<兼ねる>で原義は<二つのもの(こと)を同時にうまくやること>だ。<二つのもの(こと)を同時にうまくできない>は本来否定の<兼ねない>だ。<見かねる>は<見る><見ない>を両立できるということだ。ところが、どこでロジックが混乱したのか<<見かねる><見る><見ない>を両立できないという否定の意味で使われている。そして、しからばどちらを選ぶかというと、<見る>の方だ。 同じような論法で<言いかねる>、<言いかねない>、<聞きかねる>はどういういみか?

見交わす - 互いに見る。

見切る - <見る>のをやめるが原義だが、通常は<適当なところでやめる>の意だ。<見きりをつける>が普通だ。<見限る>とも近い。

見極める - チェックする。さらには良し悪しを判断する。必ずしも<目で見る>ことはない。

見下す - 劣っていると見なす(時にそれを示す)。

見くびる - <くびる>は<くびれる>で<首>と関連がある。太いところの一部が<首>のように細くなっていることだ。<見くびる>の意味は、本来は<太い>ものの一部に力を加え(押し)てくびれさせて見る。過小評価だ。<見る>を用いた否定的な評価語の一つ。 <見下す>に近い。

見越す - 障害を越して前を見る、予測するの意味。<見る>は<前を見る>のが当たり前のためか、あえて前、先(さき)を使った語が少ない。先見(漢語)の明。大和言葉では下見がある。

見こぼす - <見落とす>とほぼ同じだが使用頻度は低い。

見込む - できるもの(実現可能)と見なす。将来に何かを<期待する>

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見下げる - 文字通りの<下を見る>以外に、比喩用法としては<見下す>に近い意味で用いられるが、主観的よりどちらかというと客観的。見下げ果てたやつ。

見定める - 評価して決める。判断する。

見知る - 文字通りでは<見て><知る>で、視覚器官(目)と通して感知する(知る)ことだが、通常慣用的に<見知らぬ>や<お見知りおき>として用いられる。

見知りおく - 文字通りでは<見て><知る><置く(変えずに残しておく)。通常<お見知りおき>で使われる。

見すかす - <見えすく>の他動詞的用法。 隠そうとしているもの、ことを見る。 <見抜く>ほど良い意味はない。努力もあまりいらない。容易に見すかせる。

見過ごす - <見る>を時間的に継続している行為として、あるモノを<見る>、<認める(見とめる)>のに失敗してしまうことだ。同じような言葉に<見逃す>があるが微妙に違う。<見過ごす>には<うっかりして>といった意が内包されて(implied)いる。一方<見逃す>の方は継続している見るという行為の意は薄く、<うっかりして>という内包され意も薄い。むしろ<注意はしていたが>というが内包されている。

例文
疲れていたので(集中力に欠け)この間違いを見逃してしまった。
疲れていたので(集中力に欠け)この間違いを見過ごしてしまった。

また意識して<見逃す>、<見過ごす>場合もある。

今回の間違いは見逃してください。
今回の間違いは見過ごしてください。

この場合の<見過ごす>は<やり過ごす>の状況に似ている。この<見逃す>、<見過ごす>の違いはかなりこみ入っている。


見捨てる - <見限る>に近い。めんどうを見ていくのをやめる。<見限る>の方は決定までの時間が長いようだ。

見すます - 見続けてはっきりさせる。はっきりするまで見る。

見せる - 冒頭で書いたが、英語の 他動詞 to show 相当。だが<おれに見せろ>、<私にみせて>は<見る>の使役形とも言える。XXの様相を見せる、という言い方もある。

見せかける - XXのふりをする。 XXのように見せる。

見せつける - 見たくない人に無理やり見せる。

見せびらかす - 自慢げに見せる。

見そこなう - <見あやまる>、<見違える>に近いが、評価が高すぎたことを示す。

見そびれる - <言いそびれる>、<聞きそびれる>はまれに聞くが<見そびれる>はほとんど聞かない。 <そびれる>は<しようとして実際はしない>の意。
 
見そめる - <そめる>は<染める>ではなく、<書初め>の<そめ>で<はじめる>の意だろう。言うまでもなく、<すきになる>、<愛し始める>(動詞重箱読み)。

見それる - 通常<お見それ>で使われる。<それる>は<外れる>に近いが、<見当たる>はあるが<見外れる>はない。
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見だす - <見出し>はあるが、この意味の動詞はない。 <見出しをつける>になる。

見立てる - 評価語。 XXをYYと見る、仮定する。<みたて>と言う茶道用語がある。

見違う - <見間違う>の意。 XXをYYと誤って見る。

見違える - 本来は<見違う>と同じ、<XXをYYと誤って見る>だが、意味は変化し、<見違える>、<見違えるような>で、以前の評価より現在の状態が大きく良くなっていることを示す。

見つかる - <見つける>の」自発、可能。

見つくろう - これはやや難しい。<身繕う>ではない。<つくろう>は<ととのえる>、<きれいにする>、<よく見せる>の意味だが、<見つくろう>は<適当に選んで、取りそろえる>の意になっている。ただし見ることが前提になっている。<よく見て、適当に選んで、取りそろえる>だが、結果としては <取りそろえ>られたものは<よく見える> ことになろう。

見つける - <探し出す>の意。 結果は<見つかった><見つからない、見つからなかった>と自発、可能になる。英語は<to find out or to try to find>結果は<to have (not) found, (not) found>、中国語は<找>,<找 到 、找不到>になる。 <見つける>の原義は<見る>+<つける>で、鷹が獲物を<見つけるような>見る動作、行動(フォーカスして行く)だろう。 英語では to spot がある。

見つめる - <見入る>、<じっと見る>に近いが、対象が人でもよいことから、心理的な要素が加わる場合もある。

見積もる - 評価語。 <XXを見積もる>は主に価格(金銭的価値、評価)を決めて示す。

見通す - 障害を越えて(突き抜けて)先を見る。

見とがめる - 文字通り<見て>+<とがめる>。

見とどける - 最後まで<見る>。結果をはっきりするまで<見る>の意。

見とめる(認める) - 評価語としての<見る>の代表。 XXを<見とめる>はあるもの(こと)の存在、あることに対する賛成、同意をを示す。  XXをYYと<見とめる>は評価、判断、決定だ。

見取る - 本来は<見て、理解する>の意で、<見取り図>はこの意が残っている。 <病人を見取る>は<めんどうを見る>、さらには<最期までめんどうを見る>の意になる。

見とれる - <見取られる>、<見てとらえられる>の意だろう。
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見直す - 以前にした評価を評価しなおすために再度<見る>。 <見方を変える>の意もある。

見なす - 見とめる(認める)とともに<見る>を用いた評価語の代表。 XXを<見なす>という用法はなく、もっぱらXXをYYと<見なす>になる。

見習う - 文字通り<見て(見ながら)>+<習う>だが、変化して<すぐれた人の真似をする>という意味でよく使われる。<ひとのふり見て我がふり直せ>というのもある。本来の意味の<見習い>は通常<見習い>中の人。

見抜く -  味わい深い大和言葉。

見逃す - 見るべきもの(こと)が見ないうちに去ってしまう。また意識して<見逃す>場合もある。

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見はからう - 見て検討してから適当に決める。 <見つくろう>に近いが<繕う>よりは<はからう(<--はかる>の方が客観的、科学的だ。<チャンスを見て>というのがあるが、<ころあいを見はかっらて>といういい日本語がある。

見果てる - 通常<見果てぬ>で使われる。

見放す - <見限る>、<見捨てる>に近い意味でも使われるが、場合によっては<束縛を除いて自由を与える>という意味でも使われる。

見晴らす - 遠くを見る。ながめる。

見張る - ひとところにとどまって状況に変化がないかを見続ける。
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見まう - <見舞う>の<舞う>はおかしい。

見まがう - <見間違う>に近い。(下記)。

見間違う - 違ったものとしてみる。XXをYYと<見間違う>。

見守る - 保護する目的で見続ける。

見回す - あたりを見る。

見回る - <見て(見ながら)>+動き<まわり>ながら状況に異常、変化がないかを見る。

見向く - ある特定の方向をチラッと見る。

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見やる - 遠くを前を見る。ながめる。

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見られる - 受身、被害、迷惑

見分ける - 見て区別をつける。区別がつけられるまで見る。

見渡す - <見晴らす>に近い。



2) <見る>+形容詞 (あいうえお順)

見劣る - 見優れる(X)、見勝る(X)
見苦しい - 見楽しい(X)、見らく(X)
みすぼらしい
みっともない - 見とうもない (見たくもない)
見づらい - 見楽しい(X)、見らく(X)
見にくい (見難い、醜い)
見やすい (見易い)
見よい - 見悪い(X)。 ただし<見よい>はあまり使われない。<見よい>と<よく見える>は違う。
みっともない - 見とうもない (見たくもない)

 (X)は通常使われないの意味。


3)擬音語、擬態語+ <見る> (あいうえお順)

さっと見る
ざっと見る
じっと見る
しっかり見る
じっくり見る
じっと見る
じろじろ見る
そっと見る
ちらっ見る
ぱっと見る


4)<見る>関連の名詞(大和言葉)

<目>は発音からは<見る>と関連がありそう。
<店>は<見せる>からだろう。
<見世物>は<みせる>+<もの>。
<見事>は<見る>べき価値のある事。 お見事。見事なできばえ。
見え(見栄)、見覚え、見おさめ、見返り、見かけ、見方、見ごたえ、見殺し、見さかい、見せかけ, 見せしめ、見せ場、見出し、見た目、見どころ、見取り図、見習い、見場、見ばえ、見開き、見本(湯桶読み)、見目、見もの、見よう見まね。/ 下見、よそ見、わき見。



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