Wednesday, August 6, 2014

日本語の自動詞、他動詞-15、自発表現


日本語文法の独自性の中に自発という用語がある。文法上は自発の助動詞として出てくる。

動詞の未然形 + 助動詞<れる>、<られる>

の構造だ。やっかいなのはこの構造が文脈によって受身(被害)、可能、尊敬も表わしてしまうことだ。自発の意味からして、動詞の自/他で分ければ自動詞になるはずだ。

A.他動詞につく場合

他動詞の主語はふつう人や動物でモノやコトが主語になるのは例外だ。

他動詞の代表

する - される
なす - なされる
つくる - つくられる
読む - 読まれる
書く - 書かれる

以上は文脈にもよるが、受身(被害)が第一で、場合によって可能、尊敬になり、自発の意で使われる機会はごく少ないようだ。これは以上の動詞が他動詞性が強いからだろう。

1) この犯罪は自然になされ(され)たものである。

被告の弁護人の発言。英文法的には<この犯罪>が主語で、<なされた>が<なした(した)>の受身形で、弁護人としては<被告>はあえて出さないのだ。また出して<この犯罪は被告によって自然になされ(され)たものである>ともいえるが、被告にとって不利になりそうだし翻訳調だ。日本語では<この犯罪は、被告にとって自然になされ(され)たものである>とも言えそうで、自発の意味が出てきて、被告にとって不利さが薄らぐようだ。

2) リアス式海岸は自然に作られたものである。

<自然に>という副詞があるが、自発の意は薄い。日本語ではモノが主語の受身は翻訳っぽく、<リアス式海岸は自然にできたものである>が日本語らしい。

3) この小説は、はじめは人気がなかったが、2-3年たつと、なぜか読まれるようになった。

<小説は読まれる>は受身だが、モノが主語の受身で翻訳っぽい。<この小説は、読まれるようになった>は<この小説は、人々読まれるようになった>ともいえるが、これは受身とも自発と解釈できる。モノが主語の受身形で翻訳っぽく解釈すれば受身。<この小説は、(人々)自然に読むようになった>と<人々>が隠れた主語の自発とも解釈できる。

4)この本は、特に意図はなく、成り行きで書かれたものである。

意図があると自発でなくなる。しかし、何らかの意図がないと本は書けないだろう。この場合も日本語では<この本は、特に意図はなく、作者には(作者にとって)成り行きで書かれたものである>と<作者には(作者にとって)>を加えることができ、自発の意がでてくる。


思惟、意思動詞

思う - 思われる
考える - 考えられる
疑う - 疑われる

以上は自発としてよく使われる。自発の理由として、自分をあらわしたくない、責任を逃れたい、などがあげられる。発話者が、思ったり、考えたり、疑ったりするわけだが、実際必ずしも思ったり、考えたり、疑ったりを強く意識するわけではない。むしろ自然と、自発的に<思い>、<考え>、<疑い>が出てくるというのが実情だろう。これは、I xxx、 I xxx、I xxx と 話し、自意識が強く見える英語を母国語とする人々(フランス語やドイツ語もほぼ同じ。中国語も<我>は普通によく口から出てくる)でも、<私が(は)>まれにしか口から出てこない日本人でも大きな違いはないだろう。

日本人であれば受身(被害)、可能、尊敬、自発の区別(場合によってはオーバーラップする)はほぼ無意識に行われて口から出てくる。

見る - 見られる
聞く - 聞かれる

も同じことが言えるだろう。意識して見る、聞くこともあるが、自然と、自発的に<見る>、<聞く>ことも少なくない。<見る>、<聞く>は上記の自発助動詞表現はまれで、

見る - 見える
聞く - 聞こえる

の自動詞表現が普通だ。

海を見る。 - 海が見える。
小鳥のさえずりを聞く - 小鳥のさえずりが聞こえる。

これも上記の、動詞の未然形 + 助動詞<れる>、<られる>に似て可能の意ともとれるが、自発でも問題はない。

英語では日本語の<見える>の意に近いのが to see で他動詞(直接目的語をとる)、<見る>に近い意のが to look で自動詞扱いだ(to look at で at が必要)。<聞く>、<聞こえる>も同じで、<聞こえる>の意に近いのが to hear で他動詞(直接目的語をとる)、<聞く>に近い意のが to listen で自動詞扱いだ(to listen to で to が必要)。


(鼻で)嗅(か)ぐ、 (舌で)味わう、(肌で)触れるは<見る>、<聞く>ほどには発展、進化しておらず、

嗅ぐ - 嗅がれる - 嗅げる ---> におう。  香を嗅ぐ。香がにおう。
味わう - 味わわれる - 味わえる ---> xx の味がする。
触れる - 触れられる - 触れえる ---> xx が触れる。

感覚動詞の代表とも言うべき<感じる>は残念ながら純の大和言葉ではなく、感+じる(ずる)で、漢語+<する>だろう。

感じる - 感じられる - 感じれる

で、自発は<xx が感じられる>だろう。


B. 自動詞につく場合

自動詞の自発形とうのはおかしい。なぜなら、自動詞には自発の意があるからだ。チェックしてみる。

1.ひと、動物が主語の場合

歩く
走る
泳ぐ
飛ぶ
はねる
かがむ
隠(かく)れる
---
生まれる
死ぬ
泣く (他動詞にもなる)
笑う (他動詞にもなる)
起きる
寝る
休む (<を>が取れるので、形式上は他動詞にもなる。学校を休む)
---
<を>をとる、移動の自動詞というのがある。

動く(そこを動くな) - 動かす
移る(事務所を移る) - 移す
橋を渡る - 橋を渡す

以上<自発>を考えるのは難しいが

自然と泣かれる
自然と笑われる

は可能で、いわば感情表現と言えよう。<xxを泣く>、<xxを笑う>で泣く、笑うは<を>をとれば他動詞とすれば他動詞にもなる。

ひと、動物が主語の場合に自動詞に自発を考えるのは難しいと書いたが、これはこれらは自動詞だが、実際には再帰動詞(他動詞)の意味を内包しているからだろう。

歩く - 自分の足を動かして前に進む(自分の体を前に移す)
走る - 自分の足を速く動かして前に進む(自分の体を速く前に移す)
泳ぐ  - 自分の手足を動かして水の中を前に進む(自分の体を前に移す)
飛ぶ、はねる  - 自分の足を動かして自分の体を上に移す
かがむ   - 自分の足を動かして自分の体を下に移す
隠(かく)れる   - 自分の自分の体をあるところに移して他人から見えないようにする
起きる   - 自分の体を動かして立ち上がる
休む - 自分の体を休める

右側の日本語は<変>だが、こういう表現(再帰表現)は他の言語ではめずらしくない。

2.モノ(コト)が主語の場合

人や動物の運動、活動表現とは違って、モノ(コト)が意図的、意識的になにかをすることはないので運動、活動は自発表現になる。この自発表現は自動詞だが、この自動詞に文法形式的(語尾変化)対応する他動詞がある。これは日本語の大きな特徴といえる。

xx が動く  -   (人が)xx を動かす。 <風が木の葉を落とす>と言う表現があるが、これは擬人表現と言うよりは因果関係を表わすと見たほうがいい。

xx が落ちる  -    xx を落とす
xx が上(あ)がる  -    xx を上(あ)げる
xx がのぼる  -    xx をのぼらす  <のぼらす>は使役形
xx が下(さ)がる  -    xx を下(さ)げる
xx が下(くだ)る  -    xx を下(くだ)す、  
xx が流れる  -    xx を流す
xx がこわれる  -    xx をこわす
xx がつぶれる -    xx をつぶす
xx が立つ  -    xx を立てる
xx が移る  -    xx を移す
xx が掛(か)かる  -    xx を掛(か)ける
(いくらでもありそうで、追加予定)

自動詞/他動詞は一つの動詞分類方だが、外国語由来だ。自動詞を意味からして自発動詞と呼ぶことはできる。それでは、自動詞の自発動詞に対応する他動詞はどう呼ぶべきか。自発の反対で他発(動詞)があるが、イマイチ。<他発的にした>とは言わないし<発>と言う言葉をよく使う。他動詞は因果関係を示す場合が多く因果動詞はどうか。しかし日本語では自動詞で<大風で木が倒れた>と言うのが普通で<大風が木を倒した>とはまず言わない。使役は<誰々に xx を(さ)す、(さ)せる>で必ず他動詞になるが、使役の助動詞としての説明にはいいが、他動詞=使役動詞ではない。(検討課題)


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